国策ヒトカネ 世界の薬局へ成長と反発

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ギャンビット:チェスのさし初めの手。会話や観察を通して先までを計算し、その後を優位に進めるための戦術を指す。

1990年代後半、米製薬大手ファイザーの研究者だった杜瑩(サマンサ・デュ)は、母国・中国で厳しい現実を目の当たりにする。

新薬の承認を得る。それが当時の彼女のミッションだ。会社のためだけではない。新たな薬が便利に使えるようになれば、中国国民みんなのためにもなる。そう信じていた。

だが直面したのは、ジェネリック医薬品や漢方に固執する古い体質だ。

欧米と同じように、中国もグローバルで活躍する独自の製薬会社やバイオテック企業を必要としている」

再鼎医薬(ザイ・ラボ)のファウンダー 杜瑩(サマンサ・デュ)

「新薬の承認が下りるまでに、中国は欧米より7年も長くかかっていた」。何とかしなければならない。杜は責任感を強く感じたという。そして「欧米と同じように、(中国も)グローバルで活躍する独自の製薬会社やバイオテック企業を必要としている」。まるで天啓を受けたかのように、彼女は動いた。

それから四半世紀。中国の製薬業界は大きく変わった。杜の物語は「製薬大国」の座をうかがうまでになった、中国の躍進の歴史そのものを映し出している。

キーワードは政策、人材、そして資金だ。

杜が中国に舞い戻り、再鼎医薬(ザイ・ラボ)を立ち上げたのは2014年。わずかな間に、がんと免疫疾患の先端治療薬で急成長する。米ナスダック市場と香港取引所への上場を果たし、いまでは世界中の投資家から注目を集めるまでになった。

杜とザイ・ラボの成長は、あらゆる分野で米国をしのぐ超大国を目指す習近平政権の誕生と、その足取りにほぼ一致する。

中国は過去数十年間、薬の有効成分である原薬(API)の生産拠点として知られていた。工場の巨大な反応釜に様々な化合物を放り込み、そこから原薬をつくりだしていく。安価な労働コストと緩い環境基準を武器に急速にシェアを伸ばしたが、その実体はいわば海外製薬大手の下請け的存在だった。国内で製造する医薬品の大半もジェネリックにとどまり、あくまで欧米勢の二番煎じに甘んじていた。

それがここ数年で、新薬開発を担う新興企業が続々と登場するようになった。とりわけ微生物や細胞を使い、従来型の化学合成よりも生産が難しいとされるバイオ医薬品で急速に存在感を増している。

中国の医薬品市場は巨大な人口に支えられ、すでに米国に次ぐ世界第2位の規模だ。それがいま、新薬開発という先端の技術分野でも、米国に挑もうとエンジンを吹かしている。その規模と成長のスピードは脅威だが、一方で知的財産の盗用疑惑や品質問題に対する疑問と批判も絶えない。

「中国ワクチンギャンビット」の第1部では、中国が世界最大の新型コロナウイルスワクチン供給国になるまでの経緯を追った。ワクチンを外交の道具として使うだけではない。第2部は世界の製薬業界を掌握するために、中国が足元で描いている深謀遠慮をひもといていく。

中国のmRNAワクチン

中国がいま世界に輸出するコロナワクチンは「不活化ワクチン」と呼ばれるものが大半を占める。インフルエンザやポリオなどで使われてきた従来型の生産技術でウイルスを無毒化し、それを人体に打って免疫反応を引き起こす。対照的に米ファイザーや米モデルナなど欧米勢は「メッセンジャーRNA(mRNA)ワクチン」を開発した。コロナウイルスの遺伝情報を解析し、そのたんぱく質を疑似的に人体に覚えさせる新しい技術だ。

ワクチン技術としてはmRNA型の方がより高度であるのは間違いない。しかし、この東西で大きな技術格差があるという定説は、もうすぐ変わる可能性が出てきた。

「mRNA技術の市場は5年以内に爆発する」。中国の新興バイオテック企業、斯微生物科技(ステミルナ・セラピテクス)の最高経営責任者(CEO)である李航文は2019年、現地メディアに対してこう予言した。

その言葉は今回のパンデミックで現実となる。同時に「中国は創薬などの先端分野で欧米に出遅れている」との一般認識とは大きく異なり、実は相当前から現地企業勢もmRNA技術の開発レースに加わっていたことを示唆している。

中国はあらゆる種類のコロナワクチンを開発している
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中国はあらゆる種類のコロナワクチンを開発している
中国企業・研究機関などが携わるワクチンの数、開発フェーズ別
出所)英ロンドン大学衛生熱帯医学大学院

事実、すでにステミルナはmRNAワクチンの開発に乗り出している。臨床試験中の同社製ワクチンはデルタ型を含む複数の変異ウイルスに対しても有効という。

中国最大の医薬品メーカーである上海復星医薬も動く。同社は20年3月、ファイザーとコロナワクチンを共同開発した独ビオンテックと提携し、中国国内でのmRNAワクチンの開発と商業化を進めている。

さらに中国のバイオ医薬品企業、雲頂新耀(エベレスト・メディシンズ)だ。21年9月、カナダのプロビデンス・セラピューティクスと契約を結び、mRNAワクチンを中華圏と東南アジアの一部で販売する権利を取得した。

これら欧米大手との技術連携をテコに、復星医薬やエベレストはそれぞれ、オミクロン型に対する新たなワクチンを開発中と明かしている。

英ロンドン大学衛生熱帯医学大学院の集計によると、21年11月現在、臨床試験中の中国製コロナワクチンは全20種類にのぼる。それらは従来型の不活化ワクチンから、最先端のmRNA型まで多岐にわたる。世界中に不活化ワクチンを供給してきた中国医薬集団(シノファーム)と康希諾生物(カンシノ・バイオロジクス)もmRNAに参入し、一種の開発ブームのような現象が広がっている。

海外大手と手を組むことなく、中国勢による独自のmRNAワクチン開発に力を入れる例も出ている。

19年設立の新興企業、蘇州艾博生物科技(アボジェン)がその一つだ。アボジェンは中国最大級のワクチンメーカーである雲南沃森生物技術(ワルバックス・バイオテクノロジー)や人民解放軍系の軍事科学院と共同で、新たに「ARCoV」と呼ぶmRNAワクチンの開発を進める。

すでにARCoVはmRNAワクチンとして、はじめて中国国内で臨床試験の承認を得ている。米科学誌セルに掲載された論文によると、ARCoVは超低温での保管を必要としない。日本でも普及するファイザー製はマイナス70度前後、モデルナ製はマイナス20度前後での厳格な管理が必要なのと比べ、取り回しが容易とされる。

アボジェン製ワクチンへの期待は強く、すでに国境を飛び越え、メキシコ、インドネシア、ネパールでも治験が進んでいるほどだ。

アボジェン、ワルバックスと軍事科学院が共同開発するmRNAワクチン
アボジェン、ワルバックスと軍事科学院が共同開発するmRNAワクチン
出所)ロイター

頂点に向けて

中国企業が開発したファースト・イン・クラス画期的医薬品の数
中国企業が開発した「ファースト・イン・クラス(画期的医薬品)」の数
臨床試験に入った年ごと、20年は9月まで
出所)米ボストン・コンサルティング・グループ(BCG)

mRNA型を含む既存のすべてのコロナワクチンは、時間の経過とともに、その予防効果が薄れることがわかっている。パンデミックは終息せず、需要はなお巨大だ。これは後発組である中国企業にとっても、開発競争に加わる大きなチャンスを生んでいる。

中国勢が侮れない存在になってきたのは明らかだ。

生きるのは「下請け時代」に積み重ねたノウハウだ。中でもジェネリック医薬品と原薬の量産で長年培ってきた経験は大きい。「中国は世界有数の原薬生産国であり、バイオ医薬品においても巨大な製造能力を持っている。事業拡大に有利なポジションにある」。米ヴァッサー大助教授アビゲイル・コプリンは指摘する。

「世界の工場」から「世界の研究開発拠点」へ。自動車や電気製品で起きたような下克上が製薬業界でも再現しつつあり、世界の医薬品の供給体制に大きな影響をもたらしている。

バイオ医薬品企業が中国の新薬開発をリードする
  • 多国籍製薬会社
  • 中国の製薬会社
  • 中国のバイオ医薬品企業
バイオ医薬品企業が中国の新薬開発をリードする
企業タイプ別、中国で臨床試験申請があった新規化合物の数
出典:GBI、マッキンゼー

正直に言えば、5年前に中国の医薬品が海外で売れるとは想像もできなかった」

恵理基金管理のインベストメント・ディレクター 于霄(ミシェル・ユー)

「正直に言えば、5年前に中国の医薬品が海外で売れるとは想像もできなかった」。香港拠点の資産運用会社、恵理基金管理(バリュー・パートナーズ)のインベストメントディレクター、于霄(ミシェル・ユー)は振り返る。中国で開発された薬のほとんどが、既存薬と構造がほとんど変わらない「ミートゥー」薬にすぎなかったからだ。

中国の製薬スタートアップの多くはいま、世界展開を見据え始めている。百済神州(ベイジーン)のがん治療薬「Brukinsa」(一般名ザヌブルチニブ)は19年、中国が開発した薬として初めて米食品医薬品局(FDA)の承認を獲得した。ベイジーンは中国国外にも拠点を構え、同社によると中国の製造拠点も欧米の規制当局が示す基準に沿って設計しているという。

バイオ医薬品の開発と製造を手がける薬明生物技術(ウーシー・バイオロジクス)はアイルランド、ドイツ、米国に製造拠点を持つ。

新薬の世界輸出に踏み込む企業も登場し始めている。上海を拠点にする君実生物医薬科技はがんの抗体治療薬であるトリパリマブのライセンスを米バイオ企業のコヒーラス・バイオサイエンシスに供与し、対価に総額11億1000万ドル(約1300億円)を得た。

君実生物は米国を含む15以上の国と地域から、新型コロナの抗体治療薬の承認も得ている。CEOの李寧は日本経済新聞の取材に「コロナの抗体治療薬の開発のために20年初旬、PD-1(がんの治療法)などの他のプロジェクトを数カ月間犠牲にした」ことを明らかにした。

新型コロナのmRNAワクチンに関して言えば、手がける中国企業の一部は使う原材料もほとんどが国産であると主張している。

丸紅のヘルスケア・メディカル事業部の部長代理・川島浩二は予見する。「中国の製薬会社は将来的に、欧米のメガファーマと肩を並べるだろう」。復星医薬との合弁会社、復紅康合医薬江蘇を運営しており、その日々の業務の中で中国企業の勢いに実際に触れているからだ。

共産党の最優先事項

中国のバイオ医薬品分野の戦略は政府の指針が明記している通り、長期的な視点に基づいている」

三井住友DSアセットマネジメントのプロダクトスペシャリスト 村井利行

新薬、特にバイオ医薬品はいまや中国政府の最優先事項だ。一人っ子政策の影響もあり、中国では急速に高齢化が進んでいる。政府を率いる中国共産党は増大する医療費の抑制を図るため、そして社会不安を抑えるためにも、取り組みを急ぐ。

中国の創薬スタートアップの多くはそうした党の方針に沿うかのように、慢性疾患とがんに経営資源を集中する。

「中国のバイオ医薬品部門の戦略は政府の指針が明記している通り、長期的な視点に基づいている」。三井住友DSアセットマネジメントのプロダクトスペシャリストである村井利行は指摘する。バイオ医薬品は中国政府が15年に打ち出した産業振興の国家プロジェクト「中国製造2025」で対象に指定した主要分野の一つだ。

それ以降、中国政府は医薬品に関わる規制を断続的に改革してきた。多くは国内の製薬企業にイノベーションを促すことを目的としたものだ。

まず、中国当局は自国の規制をグローバルスタンダード、とりわけ欧米基準にあわせるべく、試行錯誤を繰り返した。17年に医薬品規制調和国際会議(ICH)に加盟したのも、そうした狙いからだ。ICHは臨床試験の必要患者数など、医薬品製造に関する国際的な共通ルールを定めている。

さらに医薬品の臨床試験と承認プロセスも抜本的に見直した。6年前には君実生物の抗体治療薬が治験承認を得るまで約1年を要したが、20年に申請した新型コロナの抗体治療薬はわずか2週間で済んだ。規制当局はスタッフを増員し、希少疾患用の薬であっても緊急性が高ければ、機動的に審査に回せるようにして申請から承認までの作業期間を短縮させた。

政策的にジェネリック医薬品の採算を引き下げ、製薬各社に新薬の研究開発に力を注ぐよう事業誘導も始めている。膨らむ国民健康保険料の負担増に対応し、18年から始めた政府の医薬品競争入札「集中購買政策」がそれだ。ジェネリック医薬品を主対象にし、試験運用では薬価が平均で半額に下がった。

この政策により、ジェネリック医薬品メーカーの多くはバイオ医薬品など高度な製品の開発に転換することを余儀なくされている。恵理基金管理の于は「研究開発の水準を引き上げながらジェネリック医薬品のマージンを下げることに成功した、極めて懸命なやり方だ」と評価している。

一方、新薬を優遇する政策は、公的保険で患者の費用が戻る国家医療保険償還医薬品リスト(NRDL)の拡充にも表れている。

中国当局は17年からNRDLの年次更新を始めた。21年には74の薬が新たにリスト入りし、20年(119種類)に次ぐ水準となった。そのうち62%が20年以降に発売された新薬であり、政府が画期的な医薬品の取り込みに積極的な姿勢がうかがえる。

独サイモン・クチャー&パートナーズのブルース・リウは「(NRDLへの対象拡大は)イノベーションの促進に大きな役割を果たした」と分析する。ジェネリック医薬品への依存を引き下げ、新薬には価格の面からも需要拡大を促す。製薬各社の参入が容易になるよう、党はアメとムチをうまく使い分けている。

中国政府は2015年から医薬品のイノベーションを後押ししてきた

2015

  • 「中国製造2025」でバイオ医薬品を重点分野として指定
  • 中国政府が「医薬品及び医療機器の審査・承認システムの改革に関する意見」を発表

2016

  • 優先審査制度により、希少疾患や緊急性の高いケースで新薬の審査期間を短縮
  • 「健康中国2030」でヘルスケア分野の長期政策方針を示し、イノベーションを奨励

2017

  • 国家医療保険償還医薬品リスト(NRDL)の年次更新を開始、新薬の追加を拡大
  • 医薬品の国際基準を決める医薬品規制調和国際会議(ICH)に加盟

2018

  • 規制当局による臨床試験の審査は60営業日以内と規定し、特別な通知がない限り、期間内に申請を承認
  • ジェネリック医薬品を中心とする競争入札「集中購買政策」を開始

2019

  • 医薬品市販承認取得者(MAH)制度を国家レベルで導入。製薬会社だけでなく、研究開発機関や研究者でも販売許可の申請が可能に

2020

  • 医薬品登録管理弁法(DRR)を改正し、審査過程を明確化
  • 改正特許法で知的財産権の保護を強化

中国の医薬イノベーションを語る上では、人民解放軍の存在も欠かせない。

軍は近年、民間科学者を積極的に雇い入れ、党が推し進める政策をバックアップしている。エボラ熱や重症急性呼吸器症候群(SARS)のワクチン・治療法の研究で有名な軍事科学院の陳薇は、カンシノのコロナワクチン開発にも携わっている。

日本経済新聞の取材に対し、カンシノの国際業務高級副総裁・ピエール・アルマンド・モルゴンは軍事科学院傘下の軍事医学研究院生物工程研究所のチームがワクチンの基本設計を担当したと明かした。

カンシノは飲料型の新型コロナワクチンを開発しており、中国国外での承認も目指している
吸入型ワクチン紹介映像のキャプチャ
吸入型ワクチン紹介映像のキャプチャ
吸入型ワクチン紹介映像のキャプチャ
カンシノは吸入型の新型コロナワクチンを開発しており、中国国外での承認も目指している
出所)会社提供

そのカンシノが足元で力を入れるのが、吸入型の新型コロナワクチン開発だ。すでに有効性を確認する第2相治験を終えた。ワクチンを霧状にして、口から吸うことで接種する。現地メディアには「タピオカを飲む」ように簡単に接種できると報道されている。モルゴンによると、この吸入型ワクチンは中国国外での承認も視野に入れている。

中国の時事問題に関するニュースレター「内参」を発行するアダム・ニは、こうした軍民融合は「特別新しいことではない」と評する。「人民解放軍は国家からワクチン開発という明確なミッションを与えられ、多くのパートナーと手を組んでいる」。党がすべてをつかさどる中国では、軍も企業もそれぞれ手駒の一つにすぎない。

海亀の帰還

中国製薬業界の急速な発展を後押しする第2の要因は、海外経験を持つ研究者の存在だ。

海外で専門知識を学び、中国に帰国する人材を中国語で一般に「海帰(ハイグイ)」と呼ぶ。最近では発音が同じ「海亀(ハイグイ)」になぞらえ、産卵のために浜辺に戻る本物のウミガメと同様に貴重な存在として好意的に迎えられる。

実際、カンシノやアボジェンなど、中国を代表する民間バイオ医薬品企業は「海亀」が設立した。

3年前、東京から上海に赴任した復紅の副総経理・森島礼司は驚きを隠せなかった。中国の製薬企業は日本以上に専門性の高い人材が多く、労働文化の面でも「極めて欧米的」な雰囲気を感じたからだ。

海亀が中国のイノベーションを支える

海外経験を持つCEO・ファウンダー

杜瑩(サマンサ・デュ)

杜瑩
(サマンサ・デュ)


李寧

李寧


宇学峰

宇学峰


江寧軍(フランク・ジャン)

江寧軍
(フランク・ジャン)


俞徳超(マイケル・ユー)

俞徳超
(マイケル・ユー)


王暁東

王暁東


崔霁松(ジャスミン・ツイ)

崔霁松
(ジャスミン・ツイ)


臧敬五

臧敬五


出所)各社資料

研究者は最も貴重な資産だ」

君実生物のCEO 李寧

君実生物を2012年に起業した李寧は、かつて米FDAと仏サノフィに勤務した。李は規制当局とビジネスの両面で得た国際経験が自身の会社に「成長のための近道をもたらした」と語る。同社の研究者のほとんども、多国籍企業での経験を持つ。「研究者は最も貴重な資産だ」。李は強調する。

カンシノのモルゴンは多くの「海亀」が中国製薬業界の品質や法令順守、生産基準を国際的なレベルにまで引き上げたとみる。モルゴンとカンシノのCEOである宇学峰は20年前、仏サノフィ・パスツールで出会った旧知の仲だ。

「海亀」を呼び戻すためのインセンティブも豊富に用意されている。中国共産党系の英字紙チャイナ・デイリーによると、中国四川省を拠点にする先導薬物開発(ヒットジェン)のCEO、李進は政府主導の「千人計画」に参加していた。同計画は豊富な政府資金をテコに、海外から優秀な研究者を呼び戻し、本人とその家族に潤沢な生活費と福利厚生を提供する。李はヒットジェンを創設する前、英アストラゼネカで働いていた。

海外経験のある人材を登用するために、企業が積極的に自社株を譲渡するケースもある。

米ボストン・コンサルティング・グループ中華圏チェアマンであるジョン・ウォンは、新型コロナの流行と米中対立が中国の製薬企業に大きな利益をもたらしているとみる。「米国政府が米国の大学で学ぶ中国人を敵視している」点を理由に挙げ、才能のある若い中国人研究者は米国でなく「中国で働くことを望むかもしれない」と分析する。

あふれるマネー

中国の製薬業界を支える第3の柱は、あふれるマネーだ。

米調査会社のピッチブックによると、中国の製薬企業に対し、世界中のプライベートエクイティやベンチャーキャピタルから流れ込んだ投資額は21年に過去最高の20億ドルに達した。

中国の製薬セクターに対する投資額は21年に過去最高を記録した

取引額(億ドル)

取引額の推移

取引件数(件)

取引件数の推移
中国の製薬セクターへの投資
出所)米ピッチブック

中国ではライフサイエンス分野の買収も盛んだ。米コンサルティング会社のデロイトによると、20年には同分野で93件のM&A(合併・買収)があり、総額は141億ドルに上った。19年の76件、135億ドルから大幅な増加だ。

大手機関投資家も中国の創薬ベンチャー企業をターゲットにする。

11年に設立した信達生物製薬(イノベント・バイオロジクス)は、18年の上場以前からシンガポール政府系のテマセク・ホールディングスや米運用大手のキャピタル・グループから資金を調達した。

イノベントの最高財務責任者(CFO)、ロナルド・ハオ・シー・イデは海外投資家からの資金支援がスムーズな上場につながったと振り返る。イノベントと米イーライ・リリー間の提携は、イーライ・リリーとつながりの深いリリー・アジア・ベンチャーズからの投資が発端だった。

イノベント・バイオロジクスは15年に米イーライ・リリーと提携した
イノベント・バイオロジクスは15年に米イーライ・リリーと提携した
出所)会社提供

独自mRNAワクチンを開発するアボジェンは創業からわずか2年目の21年8月、総額7億ドル超を調達した。リリー・アジア・ベンチャーズやテマセクが出資し、未上場の中国バイオ企業による資金調達としては過去最高額になったという。続けて同年11月にはソフトバンクグループ傘下の投資ファンド「ビジョン・ファンド」などから3億ドルを追加調達している。

中国のバイオ・医薬品企業の新規上場が相次ぐ
株式新規上場件数(年別)
  • 香港
  • 上海
  • ナスダック
年別株式新規上場件数の推移
21年11月26日時点
出所)QUICK・ファクトセット

中国の新興バイオ企業へ投資マネーが集中するのは、中国国内の株式市場の誘致策も関係している。

香港取引所は18年からバイオ・創薬スタートアップへの上場基準を緩和し、多くの中国企業の受け皿になっている。イノベントのイデは当初、米ナスダックでの上場を予定していたが、ルール変更を受けて上場先を香港に変えたことを日本経済新聞に明かした。

上海証券取引所が19年に開設した新興企業向け市場「科創板」も主要な選択肢の一つになっている。21年12月現在、科創板に上場する企業のうち、5分の1以上をバイオ医薬品企業が占める。英法律事務所CMS Chinaの朱王強(ニコラス・ジュ)は中国のバイオ各社が科創板の柔軟な上場ルールの恩恵を大いに受けていると指摘する。

何より投資家にとって大きな魅力は、中国の製薬企業は研究開発コストが欧米勢と比較してはるかに低く済んでいる点にある。

中国企業は売上高に比べて研究開発費が少ない
  • 中国
  • 米国
縦軸を売上高、横軸を研究開発費とした散布図。中国企業は売上高に比べて研究開発費が少ない
ナスダック、香港、深圳、上海に上場している企業
出所)QUICK・ファクトセット

一般的に製薬会社は研究開発に莫大な費用を投じ、しばしば赤字に陥ることも少なくない。しかし、恵理基金管理の于は中国勢の低コスト体質が投資家にとって魅力になったと分析する。

各種データから中国製薬企業の研究開発費を割り出すと、米国勢のおよそ10分の1だ。人件費は米国よりまだはるかに安価で、于によると一般的なエンジニアは米国の5分の1程度の給与で雇えるという。また膨大な人口のおかげで、臨床試験に必要となる患者を集めるのがはるかに簡単で安い。

海外進出を目指す中国企業が増えており、足元では各国の規制当局から承認を得るための国外治験費が膨らむ傾向にはある。それでも欧米勢に比べたコスト面での優位性は依然高い。

反動と反発

中国製薬業界の急速な成長の背後には、欧米からの技術盗用疑惑もくすぶる。

英グラクソ・スミスクラインの元研究者、薛瑜(左)はバイオ医薬品の企業秘密を共謀して盗んだとして有罪判決を受けた
英グラクソ・スミスクラインの元研究者、薛瑜(左)はバイオ医薬品の企業秘密を共謀して盗んだとして有罪判決を受けた
出所)AP通信

中国が本当にグローバルな舞台でイノベーションを起こしたいのであれば、このままではいけない」

アーサー・ディ・リトル・ジャパンのパートナー 花村遼

米国では、これまで複数の中国人研究者が米コーネル大や英グラクソ・スミスクラインなどから研究材料や機密情報を盗んだとして起訴された。米国立衛生研究所(NIH)は中国系の研究者が海外の企業や機関との関係を明確に公表していないとして強く批判している。NIHが20年に行った調査では、対象の約200人の科学者のうち93%が中国からの資金を受け取りながら、その事実を申告していなかった。

ヒューストンにあるMDアンダーソンがんセンターなどの研究機関では、技術盗用を理由に解雇される科学者が相次ぐ。

今回の新型コロナの流行では、中国が支援するハッカーが米国やスペイン、インドでワクチン関連情報へのスパイ行為や窃盗に関与したと伝えられている。米連邦捜査局(FBI)と米国土安全保障省傘下のサイバーセキュリティー専門機関(CISA)は20年5月、コロナワクチンを研究する国内外の組織に向けて、中国からの「ネットワークの侵害の可能性」の脅威が増しているとして警告を発した。

中国の知的財産法は中国企業の知的財産侵害を助けているという声も上がる。米国のシンクタンクである情報技術革新財団(ITIF)の総裁、ロバート・アトキンソンは、中国の特許制度は「中国企業が多国籍企業の特許情報にアクセスできるように設計されている」と警鐘を鳴らす。多くの海外企業は巨大な中国市場でのシェアを失うことを恐れ、対策には消極的だ。

世界進出への野望を隠そうとしない中国の製薬業界だが、ネガティブなイメージは払拭しきれていない。一部の企業が発表するデータは国際基準を満たしておらず、品質には常に疑いの目が向けられている。賄賂も横行し、アジアやアフリカの強権国家と不透明なやり方でつながっていると危惧する声も多い。

医薬産業政策研究所の主任研究員である渋口朋之は、中国勢が真のグローバルプレーヤーとなるにはまだ「長い道のり」があるとくぎを刺す。渋口の研究によると、中国発の医薬品のうち、欧米や日本で国際的な臨床試験を経たのは全体の15%にすぎない。既存の新薬にわずかな変更を加え、ただ安価にしただけの「疑似新薬」とも呼ぶべき製品群が依然大きな割合を占めていると渋口は指摘している。

イノベントのイデも「業界全体はまだ黎明(れいめい)期にある」と認めている。

デロイト中国のライフサイエンス・ヘルスケアリーダー、イェンス・エワートは、中国企業が手がける新薬の多くは「対象とするターゲットが限られており、多様性に欠ける」と指摘している。国内では中国製新薬が相次いで承認を受けてシェアを広げる一方、希少疾患のための新薬は欧米からの輸入頼りのままだ。

中国が自国の製薬産業を手厚く保護しているのは紛れもない事実である。一方、全く予測できない突然の規制変更や新ルールの導入で、海外の競合各社は翻弄され続けている。そうした「外弁慶の内地蔵」は巡り巡って、中国共産党が切望する「世界の頂点」の座を獲得する上で大きな障壁になるかもしれない。

アーサー・ディ・リトル・ジャパンのパートナー、花村遼は簡潔に中国が抱える課題をこう主張する。「中国が本当にグローバルな舞台でイノベーションを起こしたいのであれば、このままではいけない」。世界に広がる感染症をみれば、イノベーションがもはや一つの国だけでは起こせないことは明らかだ。中国製薬業界の透明性の低さはますます、そうした革新の障害となりかねない。(敬称略)