数百分の1秒単位で操作 〝彼女〟の繊細な走り

 7月下旬、どこまでも青空が広がるカリフォルニア州北部。関係者以外を立ち入り禁止にしたレース場「サンダーヒル・レースウェイパーク」で独アウディのスポーツ車が時速200キロメートル近いスピードで疾走していた。

 「僕や君じゃ、とてもじゃないけど〝彼女〟の走りにはかなわないよ」。スタンフォード大学教授のクリス・ガーデス(46)は自信たっぷりだ。白地に赤のペイントを施され「シェリー」と名付けられた同車両は、約3マイル(約4.83キロメートル)のコースを2分17秒で駆ける。

 シェリーはスタンフォード大が研究する完全無人運転車だ。ドライバーは乗り込まず、全地球測位システム(GPS)やセンサーを使って1~2センチメートル単位でクルマの挙動を認識し、AI(人工知能)が数百分の1秒の頻度でアクセルやハンドル、ブレーキをコントロールする。

 今の実力は「アマチュアのチャンピオンとほぼ同等で、プロレーサーにちょっととどかないぐらい」(ガーデス)。7月の試験走行では「4秒先」に何が起こるかを予測しながら走行するプログラムを加えた。サーキットの先を読み、より人間らしく走行することで人間を上回る実力を持つAIの開発を進める。

 「近い将来、シェリーはF1レーサーを超えられると思う?」。こう問うと、教授はちょっと間を置いてから答えた。「可能でしょう」。将来はクルマが高速走行中にスリップした際などに「プロレーサー並み」のAIが運転を代わってくれる安全技術の実用化につなげる。

シンギュラリティ(技術的特異点 singularity)

シンギュラリティ(技術的特異点 singularity)

 米国の未来学者レイ・カーツワイル氏が提唱したコンピューターが人類の知性を超えるとする説。米インテル創業者であるゴードン・ムーア氏が提唱した「ムーアの法則」に基づけば、コンピューターの演算処理速度は30年で10億倍と指数関数的に高まり、2045年には〝その日〟が訪れると予測している。現在の技術では予測不可能な未来が訪れる可能性がある。

 キカイがヒトを超える日――。コンピューターが人間の脳を超える「シンギュラリティ(技術的特異点)」と呼ばれる瞬間が現実味を帯びている。実現すれば、あらゆる産業の頭脳にIT(情報技術)が使われ、既存の業界の垣根が崩れる。米シリコンバレーでは、その近未来の片りんが垣間見える。

人間よりも安全運転 高まるAIの「経験値」

 シェリーがレース場を駆け抜けていたその日の午後。カリフォルニア州マウンテンビュー市のレストランの駐車場に、一風変わったトヨタ自動車の「レクサス」のSUV(多目的スポーツ車)が4台並んでいた。

 ルーフの上には高速回転するドーム状のレーダー。クルマの四方にはセンサーが取り付けられている。トヨタが誇る高級車の証しである「L」のロゴは外され、代わりにカメラが前方を見据える。スモークが張られたリアウインドーには「Self-Driving Car」の表示。米グーグルが開発する自動運転車だ。

 同市を車で走ると、このグーグルの自動運転車に頻繁に遭遇する。運転席にヒトは乗っているが、公道走行実験中の判断はAIがこなす。何台走っているかは明らかにしていないが、1週間で合計1万マイル(1万6000キロメートル)以上の走行データを収集しているとされる。

 公道走行を繰り返してAIの「経験値」を高めて、人間よりも安全に運転できる技術を目指す。「グーグルは自動車業界が100年かけて積み上げてきた知見に対し、ビッグデータを駆使して新しい課題を解決しようとしている」(ガーデス)

自動車とIT 避けて通れぬ業界の融合

 トヨタはスタンフォード大とAI研究で連携。日産自動車、ホンダなどの自動車大手も相次ぎ同地の研究拠点を拡充。日産は米航空宇宙局(NASA)の研究所から、自動運転分野の専門家のマーティン・シーアハウス(52)を引き抜いてシリコンバレーの研究トップに据えた。各社とも自前で自動運転技術を開発して、「クルマの頭脳」が業界外に流出するのを阻止したい考えだ。

 だが、そのシーアハウスは言う。「グーグルはすでにこの分野の科学者を根こそぎ引き抜いた後だ。グーグルと自動車大手は将来、どう協力するかを話し合うことになるだろう」。日本産業の最後の砦(とりで)でもある自動車産業とIT業界の融合は、もはや避けては通れない。

ロボットを人間くさく 業界超えた開発

 東京都港区にあるソフトバンクグループの本社ビルの8階、セキュリティーがひときわ厳しい部屋がある。6月に発売されたヒト型ロボット「Pepper(ペッパー)」40台が並び、それと同数のエンジニアがペアになる。エンジニアの1人はパソコンにプログラムを打ち込むと振り返り、ペッパーの動きや会話を確かめる。パソコンとペッパーのあいだを何度も向き直り、ひとつひとつのしぐさにこだわる。

 エンジニアらは吉本興業が派遣した技術陣だ。感情豊かな振る舞いに磨きをかけるため、「笑い」のノウハウを生かす。ソフトバンクと吉本がコンビを組んだのは2012年末。吉本が新規プロジェクトを含め開発のほとんどを担っており、ペッパーが生活になじむよう師匠役となる。

 コミュニケーションの流れをつくる「間」や「空気」をデジタル化して微調整を繰り返す作業は終わりがない。違和感がない動作や声の調子を引き出すためのプログラミングにかかる手間は、スマートフォン(スマホ)向けアプリのざっと3倍以上かかるという。しかも、こうしたノウハウはテクノロジー業界だけにしがみついていても見当たるわけではない。「ペッパーを人間にもっと近づける」(吉本の家永洋=38)。ロボットらしさを徹底的になくし、人間くささにこだわる。テクノロジー業界から一歩離れた人材や経験が持ち味を発揮する。

 ペッパーに代表されるロボットやAIが活躍の場を広げており、コンピューター自体が学ぶ「機械学習」も登場して進化をさらに加速させる。米未来学者のレイ・カーツワイルは、2045年ごろに人工知能が人類全体の脳を逆転すると予言する。それまでの歩みを想像すれば、ペッパーはまだよちよち歩きを始めたにすぎない。

念じれば機械が動く 家や介護への応用研究

 肝心の人間の脳はどこまで読み取れるようになったのか。島津製作所、国際電気通信基礎技術研究所(ATR)などは手や足を使わずに機械を動かす「BMI(ブレイン・マシン・インターフェース)」と呼ぶ研究を進める。「暑い」と感じればエアコンの温度を下げたり、「暗くなった」と意識すれば部屋の照明を明るくしたりする技術に結びつける。

念じて動かす ネットワーク型BMI(ブレイン・マシン・インタフェース)概念図 島津製作所

念じて動かす ネットワーク型BMI(ブレイン・マシン・インタフェース)概念図 島津製作所

 島津製作所は脳の活動をつかむ小型・軽量のウエアラブル装置をすでに開発済み。脳内にわざわざ電極を埋め込む必要がなく、ヘッドギアをかぶれば頭皮から脳波や血流の動きをつかめる。

 「100から9を引いていく暗算を続けてください」。島津製作所の本社工場(京都市)で、記者が「BMI」を体験した。ヘッドギアを装着して、計算したり言葉を発したりして脳に負荷をかける。ヘッドギアがつながれたパソコン画面で脳の活動を示す線が波となり、答えにつまると曲線が鋭くなった。視覚、聴覚、興奮の度合いなどを計測したうえで、その考えや不快感などの感情を分析する。脳からデータを抜き取られ、丸裸にされたようでムズムズする。

 積水ハウスや慶応大学などが加わって、この技術をつかった住居「BMIハウス」を京都府精華町に建てた。14年12月にテレビ、エアコンや照明などの操作、扉や戸棚の開閉といった実証実験に取り組んだ。クラウド経由で蓄積したビッグデータと照合させて解析プログラムを駆使して正確さを高めた。実験者が念じ、意のままに動かせた精度は8割を超えた。

 ATRの動的脳イメージング研究室室長、須山敬之(48)は「今後は誰もが使えるように、脳の共通点を探っていく」と説明する。高齢者、障害者への介護など用途は広く、早ければ20年の実用化をめざす。

車輪発明から第4次産業革命、
そしてシンギュラリティへ

(出所)平成27年版 情報通信白書を基に作成

進化の速度 ケタ違い

編集委員 中山淳史

 情報革命が生み出す新しい産業社会とはどんな姿だろうか。

 歴史を振り返れば、最古の重要発明とされる車輪やゴシック体活字の「四十二行聖書」が写本を駆逐したグーテンベルクの活版印刷、製造業を手工業から機械工業に変えた18世紀の産業革命などが経済・社会に大きな変革をもたらした。だが、これから起こる変革の広がりと深さは「過去の比ではない」との予測が最近、後を絶たない。

  シンギュラリティ――。「特異点」と訳されるこの言葉がヒントだ。米国の発明家でAIの権威、レイ・カーツワイルが05年の著書「ポスト・ヒューマン誕生」で「コンピューターは人類の知性を45年にも超える」と予言、その後の脳や遺伝子、ロボット工学などの急激な進歩を言い当てた。

 人類の知性を超える、とは人間にしかできなかった仕事、作業がAIを含むコンピューターですべて置き換え可能になる、との意味だ。その予測をさらに具体的に検証したのが、米マサチューセッツ工科大スローンスクール経営学教授エリック・ブリニョルフソンの著作「ザ・セカンド・マシン・エイジ」である。

 同書は「コンピューターはかつて蒸気機関が肉体労働で実現したことを知的労働で実現する」と書く。クイズで人間を負かすスーパーコンピューター、自動運転車、モノのインターネット化(IoT)が矢継ぎ早に登場したのもシンギュラリティに向けた前哨戦と言えよう。

 それを後押ししているのが半導体の処理能力が18カ月ごとに倍増するとする「ムーアの法則」だ。指数関数的に増加する処理能力はここ数十年間で当初の何兆倍にも何京倍にもなり、それがまた1.5年に一度ずつ倍々ゲームでコンピューターの高性能化を加速していく。

 産業も社会も当然、大きく変わる。1つは企業の成長力、スピード、変革力、市場の期待感だ。自動運転に必須とされる電気自動車とソフトウエア技術を豊富に持つ新興のテスラ・モーターズは株式時価総額が3兆円台後半に拡大し、日産自動車に迫りつつある。ITで人の移動、旅行を大きく変える可能性がある米国のウーバー・テクロジーズ、エアービーアンドビーは株式上場前からグーグルの公開時を大きくしのぐ評価額が予想され、米産業界のさらなる新陳代謝を予感させる。

 ドイツで始まったIoTで製造業そのものを再定義しようとの試み「インダストリー4.0」。提唱者のヘニング・カガーマンは「工場はいずれスマホと同じになる」と言う。アプリをダウンロードすればどんなものでも生産できる汎用性の高い「装置」を思い描く

 金融も資本市場も変化の例外ではない。米国ではシリコンバレー発のIT企業が融資やローンで伝統的金融機関を脅かす兆しだ。ベンチャー企業には株式上場よりクラウドファンディングを重視する動きも出てきた。

 産業や金融の世界では新旧や大小、国境は関係がなくなる。新興、中小、新興国の企業にむしろ有利な場面も増えよう。日本企業にも大転換の時だ。変化の大波をチャンスに変えられるか。変革する力が試され始めた。(敬称略)

取材・制作森園泰寛、河本浩、清水明、田中暁人、高田倫志、岩戸寿

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