「逃げっぺし」
10年目の証言
南三陸の3.11
リアス式海岸の美しい景観と、豊かな漁場に恵まれた街並みは「あの日」を境に一変した。宮城県北東部で、三陸海岸の南に位置する南三陸町。市街地など低地のほとんどは東日本大震災による巨大津波にのみ込まれ、建物の6割超が全半壊し、死者・行方不明者は約830人に上った。壊滅的な被害を象徴する地域の一つとされる南三陸の「3.11」と、10年間の復興の歩みをたどった。
(津波の写真が含まれます)
スクロール
震災前、にぎわう南三陸町


14:46地震発生
戸倉波伝谷
家が丸ごとのみ込まれた




志津川大久保
あふれ出した黒い海



防災対策庁舎屋上
北東方向
がれきの煙が一面に



南東方向
防災対策庁舎の屋上まで津波が


志津川汐見町
町が水に沈んだ




志津川中学校周辺
すべてが押し流された








志津川高校周辺
波より前に現れた白煙




志津川大久保
建物の屋上には避難者の姿



志津川高校周辺
何もなくなった




14:46
地震発生、震度6弱
及川善祐さん
- 年齢
- 67
1880年創業のかまぼこ店「及善商店」5代目社長
絶対に津波来る
揺れを感じた時、志津川湾近くの商店街にある自社工場にいた。大鍋に入った熱湯が飛び散り、床から湯気がのぼった。「絶対に津波が来る」。そう確信し、従業員十数人に「解散だ。高台に逃げろ」と呼びかけた。
芳賀タエ子さん
- 年齢
- 71
震災当時は夫、孫と3人暮らし。語り部として被災経験を伝える
急ぎ兄夫婦宅へ
市街地の川沿いの自宅で、挨拶状をまとめていると体が振り子のように揺れた。自宅にいたのは私だけ。携帯電話を持ち、車に乗り込んだ。1キロほど内陸にあり、海抜7~8メートルの兄夫婦宅に向かった。
佐藤可奈子さん
- 年齢
- 23
当時は中学1年。「地元に貢献したい」と町観光協会に
脚立から転落
翌日にある卒業式のために、クラスメートと体育館の壁に飾り付けをしていた。揺れで脚立から落ち、頭部や肩を強打した。意識がもうろうとする中、全校生徒が集まる校舎前の広場に向かった。
14:49
大津波警報、予想は10メートル以上に
工場から避難
工場の戸締まりを済ませ、最後に避難した。安全な場所に車を置くために志津川小学校に向かった。1台目を止め、全速力で工場に。もう1台の車に乗り込み、再び小学校に移動する最中にラジオで「10メートルの津波」という予報を聞いた。「今ある町には帰れない」と覚悟した。
「逃げっぺし」
市街地に向かう反対車線に15台ほどの車列が見えた。「なんでそっちに行くの」。クラクションを鳴らし、内陸側に手を振った。合流した兄に「逃げっぺし」「ダメだっちゃ。逃げないと」と呼びかけた後、兄夫婦宅を出ると津波はあと15メートルほどに迫っていた。
「絶対に見るな」
中学校は高台にあり、多くの住民が避難した。市街地に向かい「逃げろ」という声が響く中、先生に「絶対に見るな」と厳命された。私たち生徒はかがみ込み、地面を見つめ続けていた。トラウマ(心的外傷)にならないように先生が配慮したのだと思う。それでもとにかく怖かった。
15:25
巨大津波、市街地襲う
妻の姿見えず
それから避難時の集合場所としていた高台に移り、当時83歳だった母らの無事を確かめた。しかし妻の姿はない。
程なくしてものすごいスピードで泥水が川を遡上するのを目にした。家屋や船舶が流され、黒煙を上げて町が壊滅していく。映画のワンシーンのような光景をぼうぜんと見つめるしかなかった。
迫る水の気配
近くの福祉施設に移った後、「山さ登れ!」という大声を聞き、サンダル履きのまま裏山に逃げ込んだ。「もっと上に」とせき立てられたが、茂みが深く登るのは難しい。足元に水の気配を感じながら、25メートル近い高さまで登った。
洗濯機で洗われるように町並みが崩壊していく。「なんだっけやー」「あー」。ため息ばかりが聞こえた。周りに兄夫婦は見当たらない。
校庭ですすり泣き
波がぶつかったり、木々が折れたりするとても大きい音が聞こえた。一転して静けさに包まれた。住民が集まる校庭から「もうだダメだ」「流された」とすすり泣く声が聞こえた。私たちは「大丈夫だよ」と励まし合った。
海沿いに住む同級生は涙をこぼし、気を失う生徒もいた。1学年上の兄がそばにいたから「少なくとも家族の1人は無事だ」と比較的冷静でいられた。
夕方
避難先で眠れぬ一夜
「きっと会える」
高台も徐々に浸水し、志津川小に戻ろうとした。途中で目が不自由な先輩を見かけ、介助を引き受けた。妻の話をすると、先輩は「大丈夫だ、奥さんは生きている。きっと会える」と私の手を握りながら励ましてくれた。妻とは無事、小学校で再会できた。先輩の言葉は生涯忘れない。
小学校には約2千人が避難していた。夜には、津波被害がなかった山あいの住民がおにぎりを持ってきてくれた。数に限りがあり、私は口にせずに車内で夜を過ごした。
救護室は混乱
年配の男性から「みんな志津川高校にいる」と教えられ、雪が降るなか向かった。たどり着いた頃には日が傾いていた。夜になって「20歳くらいの女の子が運ばれてきた」と聞いて腰が抜けた。「めいに間違いない」と思った。
救護室で対面しためいは頭から泥をかぶっていた。下敷き状態のところを救出されたという。叫び声、おえつが聞こえ、救護室内は混乱していた。めいは他県に搬送され、いまは元気に働いている。兄夫婦は後に死亡が確認された。
大漁旗で寒さ耐え
先生が腕時計をのぞき込み「4時だ」と告げた後、教室に戻った。私のクラスは1階で、壊滅した町の様子は窓からうかがえなかった。あまりに非日常的な状況だったせいか、教室は高揚した雰囲気に包まれていた。体育祭で使う大漁旗に足を入れて寒さをしのぎ、他愛のない雑談やトランプをして過ごした。
地震、津波についてや、気分が沈む話題は一切口にしなかった。一人ひとりの境遇は違う。示し合わせることなく気をつかっていた。
10年たって今
水産業つなぐ
「絶対に会社を続ける」。津波で工場を流されてしまったが、11年9月には町外でかまぼこ作りを再開させた。17年6月に南三陸町で自社工場を新設し、JR仙台駅への出店など販路拡大に力を入れてきた。一時は震災前の水準に戻った売り上げは、新型コロナウイルスの影響で厳しい状況が続いている。それでも「水産業で地元経済を支え、次世代にバトンをつなぐ」という自負は持ち続けたい。
まだ涙が出る
震災から10年を迎える中、建物やインフラは整備された。しかし、町を離れた知人とは疎遠になり、親族が行方不明の人もいるから住民同士の会話でも気を遣っている。私も多くの親族を亡くした。「防災を考えるきっかけに」との思いで語り部を務めているが、震災を振り返ると涙が出る。私にとっては「まだ10年」。かつてのようにご近所さんと気兼ねなくおしゃべりする日常が戻るにはもっと時間が必要だ。
観光地に変える
小さい頃から「大好きなこの町で働きたい」と思っていたから、壊滅した町を目にしたときに「ここで就職するのは難しいだろう。夢がなくなった」と絶望した。高校を出て2年近く町外で働き、「(一大イベントの)福興市の企画に携わりたい」とアピールして観光協会に入った。これまでは「被災地」として関心を集めてきた。これからは美しい里山や海、海産物などを生かして観光を盛り上げていきたい。
海辺の町、
変わり果て
壮絶な1日から一夜明けた12日、住民らに突きつけられた現実は、変わり果てた街の姿だった。津波は海辺だけでなく、内陸深くまで到達。市街地の8割超に当たる1144ヘクタールが浸水し、家屋や漁船のほか、町役場庁舎や病院など公共施設をほぼ根こそぎ押し流した。行政機能がマヒし、混乱を極めるなか、一時、当時の人口の半数以上に当たる9500人と連絡が取れていないとの情報も流れた。
南三陸町の主な被害
死者・行方不明者
死者 |
620
人
(関連死20人) |
---|---|
行方不明者 | 211 人 |
住宅被害
全壊 |
3143
戸
|
---|---|
半壊 |
178
戸
|
半壊以上の合計 |
3321
戸
(61.9%) |
※11年2月末時点の住民基本台帳世帯数に対する割合
津波、最大23.9メートル
南三陸町は、湾の奥に行くほど狭まる複雑な地形(リアス式海岸)の影響などから、明治三陸地震(1896年)、昭和三陸地震(1933年)、チリ地震(1960年)など、過去に何度も津波の被害を受けてきた。東日本大震災の揺れによる被害は比較的少なかったが、津波は市街地など低地のほとんどをのみ込み、住宅や商店が密集する志津川地区では最大23.9メートルを記録した。過去の地震や当時の被害想定を大きく上回る規模で、他の地区も軒並み10メートル以上の津波に見舞われた。
防災庁舎も壊滅
職員ら43人犠牲に
災害時の拠点となる「防災対策庁舎」も大津波にのみ込まれ、町職員33人を含む計43人が命を落とした。町本庁舎に隣接する防災対策庁舎は3階建てで高さ約12メートル。地震発生後、町は防災対策庁舎に災害対策本部を設置し、担当職員らが2階の危機管理課に集まった。
当時のハザードマップでは、地震直後の大津波警報と同程度の最大6メートル強の津波を想定していた。町内には5.5メートルの防潮堤があり「一定程度浸水するだろうというのが、地震直後の災害対策本部メンバーの共通認識だった」(町などの検証報告書)という。
地震から28分後、津波の予想は10メートル以上に引き上げられた。「10メートル以上の津波が押し寄せています」「高台へ避難してください」。女性職員(当時24)は防災無線で町民に避難を呼びかけ続けたが、15.5メートルの巨大津波が防災対策庁舎を乗り越えた。
がれきの山、校庭に「SOS」
家々は跡形もなく消え、町全体ががれきの山と化した。
志津川高校では、避難者らが校庭に「SOS」のメッセージを書いた。
高台に逃れた人たちは身を寄せ合い、毛布にくるまって寒さに耐えた。
厳しい現実、
支援も徐々に
2011/3/13
建物全壊、6割近くに
南三陸町では津波などによって全世帯の約58%に当たる3143戸の建物が全壊し、半壊などを含めると6割を超えた。災害がれきの焼却処理は3年後の2014年3月に終わった。
2011/3/15
避難所生活、一時9700人
町によると、被災者らは町内外約150カ所の避難所に身を寄せ、ピーク時の3月20日は約9750人に上った。最後の1人が退去し、全ての避難所が閉鎖されたのは10月21日だった。
2011/3/17
自衛隊やボランティア、復旧支える
他の被災地と同様に、南三陸の復旧・復興に向けた取り組みは多くの人たちに支えられた。大震災から3日後の3月14日、陸上自衛隊第4師団(司令部・福岡県春日市)は行方不明者の捜索や人命救助を開始。他の自治体からの応援職員に加え、ボランティアも全国から駆けつけた。ボランティアは11年8月に約8300人に達した。
2011/4/11
鎮魂のサイレン
東北の被災地では、地震の発生時刻に合わせて犠牲者への黙とうがささげられた。南三陸町の避難所「総合体育館ベイサイドアリーナ」では、避難住民約400人やボランティアがサイレンに合わせて一斉に黙とう。佐藤仁町長は防災無線を通じ「震災は言葉では言い表せない痛みとして私たちの心に深く刻まれている」と町民にメッセージを送った。
2011/4/27
両陛下、東北被災地を初訪問
当時の天皇、皇后だった上皇ご夫妻が自衛隊機で南三陸町に入られた。東北の被災地に足を運ばれたのはこの時が初めて。高台のグラウンドから壊滅した町並みに向かって黙礼し、避難所ではひざをついて被災者らに「お体は大丈夫ですか」などと励ましの声を掛けて回られた。
2011/8/31
仮設住宅の建設が完了
町内外58カ所に仮設住宅2195戸が完成し、最大約5840人が入居した。入居者がゼロになったのは2019年12月だった。
2012/2/25
南三陸さんさん商店街がオープン
「サンサンと輝く太陽のように、笑顔とパワーに満ちた南三陸の商店街にしたい」。こんな思いを込めて、被災した商店などが仮設店舗としてオープンした。2017年3月にはかさ上げされた土地に移転開業。南三陸杉を使った平屋6棟に、鮮魚や飲食など28店舗が入り、町を代表する観光スポットになった。
2012/3/11
「祈り届け、思い一つに」
町職員ら43人が死亡した防災対策庁舎の前には、手を合わせて犠牲者の冥福を祈る人らの姿があった。庁舎は「震災遺構」として保存するか、解体するかの結論が出ておらず、2031年まで宮城県が維持管理することになっている。
2012/12/22
被災鉄道「バス」で再開
JR東日本は、大震災で被災し不通となっている気仙沼線の柳津―気仙沼間(55.3キロ)で、鉄道の代わりに専用道にバスを走らせるバス高速輸送システム(BRT)の本格運行を始めた。鉄道の復旧には膨大な費用がかかるため、町はBRTでの本格復旧を受け入れ、早期のまちづくりを進める方針を打ち出している。
2013/2/12
災害公営住宅の建設始まる
住宅を自力で確保するのが難しい人向けに供給する「災害公営住宅」は8地区で738戸の整備が計画され、2017年3月までに完成した。
2015/12/14
高台に再建 町立病院が開院
2016/10/30
三陸道、仙台と南三陸が結ばれる
復興道路として国が整備する三陸沿岸道の三滝堂インターチェンジ(IC)―志津川IC間の9.1キロが開通した。三陸道が県北部の沿岸部に初めて到達し、南三陸町と仙台市が自動車専用道で結ばれた。開通した区間は津波浸水域外にあるため、災害時でも町への経路が確保できると見込まれている。
2017/9/3
町役場新庁舎が開庁
2019/12/17
「安らかなれ」復興祈念公園が開園
旧防災対策庁舎を含む約6.3ヘクタールは「震災復興祈念公園」として整備された。町内の犠牲者の名簿を安置する「祈りの丘」の石碑には「愛するあなた 安らかなれと」のメッセージが刻まれている。
2021/3/11
復興の歩みこれからも
震災復興祈念公園は2020年10月に全面開園した。骨組みだけが残る旧防災対策庁舎(写真左上)近くで献花できるようになり、公園と南三陸さんさん商店街を結ぶ「中橋」も開通した。
10年たって変わってきた街並み
人口10年で3割減
水産業ブランド化に活路
2011年2月末時点で1万7666人だった南三陸町の人口は21年2月末時点で1万2416人となり、震災前に比べて約3割減った。長期間にわたる仮設住宅での暮らしを余儀なくされた家族らの転出が増えた。
現在は25年の人口を1万1620人程度で維持する目標を掲げる。転入者向けに最大月2万円の家賃補助や、町内の保育施設は2歳までの利用料が第2子半額、第3子以降無料とするなどの支援策を用意。担当者は「施策を重ねて人口減少のペースを抑えたい」と話す。
一方、産業の復興は着実に進んだ。商工業では被災した473事業所のうち21年2月時点で294事業所が再開。基幹産業の水産業では、養殖用のいかだが流されたのをきっかけに低密度でのカキの養殖を始めた。生育の早さや身が大きくなる利点があり、16年には環境への配慮が評価され「水産養殖管理協議会(ASC)」(本部・オランダ)の国際認証を日本で初めて取得した。