GDPでみる中国共産党100年 経済成長が支えた支配
中国共産党は7月、結党から100年を迎える。1921年に結成された組織は、今や米国と世界の覇権を争うまでに膨張した。大躍進政策、文化大革命、天安門事件……。幾多の混乱を経てなお続く統治を支えるのが、世界第2位に上り詰めた経済の成長だ。異形の発展を遂げ、強権へと突き進む党の光と影を振り返る。
中国のGDP
7月
毛沢東氏ら13人は1921年7月に上海市内の住宅で第1回党大会を開き、中国共産党を結党した。「非合法」だったこの会議はフランス租界警察の耳に入り、最終日は浙江省嘉興市の南湖に浮かぶ船上に場所を移した。結党メンバーのうち4人は日本留学組。当時は世界革命を目指すソ連の共産党の指導を受けたコミンテルンの中国支部として発足した。
10月
国民党との内戦で根拠地の江西省瑞金を追われた中国共産党は、陝西省延安までの約1万2000キロメートルの道のりを、約2年かけて徒歩で移動した。長征の途中、35年1月に貴州省で「遵義会議」を開き、コミンテルンの指導体制から毛沢東氏の指導体制が確立。兵力は長征を始めたときの8万6000人から党の公式資料でも3万人あまりまで激減した。
10月
「中華人民共和国中央人民政府が本日、成立した」。1949年10月1日、毛沢東氏は北京の天安門に立ち、マイクに向かって建国を宣言し、集まった約30万人が歓声で応えた。毛氏の傍らには周恩来首相や、後の文化大革命で迫害を受ける劉少奇氏らの姿もあった。建国直後にはソ連や東欧諸国、北朝鮮、モンゴルなどと相次ぎ国交を樹立した。
1958年、当時第2位の経済大国だった英国を追い越す目標を立てた毛沢東氏は急進的な農工業の増産運動を命じ、「大躍進政策」が始まった。鉄鋼生産の拡大に向け、全国の人民公社の裏庭には土法高炉が建設された。農作業用の鉄製道具が高炉に投げ込まれた結果、農業生産が激減。全国で大飢饉が発生し、4千万人以上が死亡したとされる。
5月
大躍進政策の失敗で党内の権力基盤が弱まった毛沢東氏は1966年5月に文化大革命を発動し、自身への個人崇拝を利用して学生などの若者を扇動した。熱狂にかられた若者は「紅衛兵」の腕章をつけて「(反動派に対する造反には道理がある)造反有理」のスローガンを連呼。全国で文化財が破壊されたほか、知識人も迫害され、10年間で300万人が投獄、50万人が処刑の憂き目にあったとされる。国家主席だった劉少奇氏も監禁され死亡した。
2月
キッシンジャー米大統領補佐官が1971年7月に極秘に訪中し、米中国交回復の動きが始まった。72年2月に周恩来首相の招きでニクソン米大統領が電撃訪中し、米中共同声明で台湾が中国の一部であるとする中国の主張に米国が異を唱えないと表明。貿易や経済関係の発展をうたった。両国は79年1月に正式に国交を正常化し、米国は台湾と断交した。
9月
1976年1月に首相の周恩来氏が、9月に毛沢東氏がそれぞれ亡くなった。華国鋒首相は10月、文化大革命を推進した毛沢東夫人の江青氏ら「四人組」を逮捕した後、後継者として党主席に就任した。党は81年6月の中央委員会総会で、文革を否定しつつも毛沢東氏について「功績が第一義的で、誤りは第二義的である」と総括した。
12月
文化大革命で地位を追われていた鄧小平氏は復権を果たすと、1978年10月に日本を訪問。自動車メーカーや鉄鋼大手などを視察し、新幹線にも乗車した。12月の党重要会議では、資本主義を部分的に取り入れた「改革開放路線」にカジを切った。79年から80年にかけて広東省深圳市など4カ所を「経済特区」に指定し、西側先進国の企業を積極的に誘致した。
6月
1989年4月、急逝した改革派指導者、胡耀邦・元党総書記の追悼をきっかけに、学生らが天安門広場で抗議活動を始めた。後に知識人や労働者も加わって大規模な民主化運動に発展した結果、鄧小平氏ら党指導部は6月4日未明に人民解放軍を投入して武力鎮圧した。中国政府は死者数を319人としているが、実際にはさらに多かったとの見方が強い。
6月
1989年6月に天安門事件を巡って趙紫陽・党総書記が解任されると、最高実力者の鄧小平氏は政治局員だった江沢民氏を総書記に抜てきした。江氏は11月に中央軍事委主席に、93年3月に国家主席に就き、党、人民解放軍、国家機構のトップを兼任する体制が確立した。江氏は外交的孤立を深めるなか、米国など西側諸国との関係改善に努めたほか、「愛国」の名目で反日教育を進めた。
1~2月
天安門事件の影響は経済政策にも及んだ。改革開放路線の停滞に懸念を強めた鄧小平氏は1992年1~2月にかけて深圳市や上海市などを訪問、地元幹部らに改革開放に踏み出すよう発破をかける「南巡講話」を行った。北部にある首都・北京市は保守派の影響力が強く、南部から改革の必要性を訴える必要があった。92年秋の党大会では「社会主義市場経済体制の確立」を採択し、社会主義を維持しつつ、市場経済を導入する方向性が固まった。
11月
2002年11月に党総書記に就いた胡錦濤氏は「科学的発展観」という概念を打ち出した。経済成長だけを追い求める考え方を改め、マイナス面にも配慮した社会を目指した。都市と地方の所得格差拡大や環境汚染の悪化、汚職などの腐敗問題が背景にあった。江沢民派が一定の影響力を保持したため、党内の権力闘争にもエネルギーをそそがざるを得なかった。
11月
「虎もハエもたたく」。2012年11月に党総書記に就任した習近平氏は「反腐敗」を掲げ、汚職摘発に乗り出した。習氏と距離を置く党幹部が多く含まれており、政治闘争の側面もあった。18年3月には憲法を改正し、2期10年までとした国家主席の任期を撤廃した。香港国家安全維持法の制定などで強権色を強めたほか、強国路線への強い意欲を示したことで、米国との対立を招いている。