中国共産党、
新指導部全データ
習近平3期目体制、本格始動
習近平(シー・ジンピン)総書記(国家主席)3期目政権が始動した。中国14億人の頂点に立つ彼らはどのような人物なのか。習氏はなぜ一極集中体制を実現できたのか。習政権の権力構造を読み解いた。
党指導部、習派がずらり
習近平3期目政権の指導部は習氏に近いとされる「習派」が大きな割合を占めた。最高指導部を指す政治局常務委員は7人中習氏を入れた6人、序列24位以内の政治局員は24人中19人を占めた。衛生省や外務省など専門省庁出身のテクノクラートや、理論家として3政権に仕えた王滬寧氏は「無派閥」としたが、みな習氏への忠誠を誓っており、彼らもすべて習派とみなすと、中央政治局内に習派以外の勢力は皆無となる。
彼らはなぜ中国共産党の頂点に立つことができたのか――。中央政治局員や政府の要職に就いた人物のそれぞれの人生や習氏との関係性を分析した。
新指導部の顔ぶれ
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※は見通し。写真左上の数字は序列の順位。カッコ内は年齢
中央政治局員
中央政治局員外の主要な役職
習派における人脈相関図
党指導部は「習派」が完全に席巻した。習派の特徴は、主要メンバーそれぞれが個別に習氏との関係を構築し、派閥としての結束が弱い点にある。かつての江沢民(ジアン・ズォーミン)派は利権でつながり、共産主義青年団派は固い仲間意識で結ばれていた。これまでは少数派だった習派が大所帯になるにつれ、主要メンバーに連なる新たな人脈も生まれつつある。限られたポストを奪い合うライバル同士の争いや習派内の派閥のせめぎあいも予想され、政権の求心力をどう保つかも新たな課題に浮上する。
今回、中央政治局員に選ばれた習派内の人脈相関図を分析した。「福建閥」や「浙江閥」「新上海閥」は習氏がかつて赴任していた地域で出会った部下たちのグループで、いずれも習氏の最側近といわれている。「清華大学」関係は、習氏の大学時代の寮のルームメートだった陳希・前中央政治局員に連なる人脈が引き上げられている。「中央党校」は習氏が中央党校の校長だった際の2人の副校長が指導部入りを果たした。軍幹部では今回、父親同士も戦友で習氏の子供のころからの友人である張又俠氏が72歳にもかかわらず中央軍事委員会副主席に留任した。
それ以外では、習氏の本籍地である陝西省や父親関連のグループも台頭している。同グループは習氏との個人的なつながりは薄いが、習氏の「下放」された村や習氏の父親である習仲勲氏の陵墓を「聖地化」するなどの働きで出世の糸口をつかんだ。「その他」に分類した李鴻忠氏も習氏への強い忠誠のアピールが評価につながっているという。習氏とは直接のつながりはないが、軍民融合を推進する習氏のもとで軍事産業や宇宙航空関係の企業トップ経験者が相次いで指導部や地方政府のトップに引き上げられており「軍工系」や「航天(宇宙)系」と呼ばれている。
習氏の人材登用の特徴は「内堀」と「外堀」で人材を使い分けている点にもある。中央政治局常務委員をはじめ習氏の周囲を固める「内堀」には、経験や適性よりも習氏への厚い忠誠心を持つ人材を重視した。代わりに「外堀」には優秀なテクノクラート(技術官僚)を積極登用している。中央政治局や国務院(政府)の部長(閣僚)級、地方トップを見渡しても、軍工系や航天系、原子力関連、衛生医療など各界の逸材が目立つ。習政権下で異分野から指導者として抜てきされた経歴が多く、習氏に忠誠を誓っているのは間違いない。
副首相に選ばれた4人のうち、筆頭副首相の丁薛祥氏とマクロ経済・金融担当の何立峰氏は習氏が過去の勤務地で出会った信頼できるなじみの部下たちだ。張国清氏は軍工系の代表格で、科学技術政策や軍民融合を担うとみられる。劉国中氏は習氏の若いころの「飲み友達」といわれる栗戦書氏が抜てきした人物だ。
習氏は中央政治局に
側近を次々に引き入れた2012年の第18回党大会で習氏が総書記に就いたとき、習氏にはまだ「習派」と呼ぶべき確たる勢力はなかった。習氏は党の八大元老の一人である習仲勲氏を父に持つ「太子党」のプリンスだ。とはいえ、若い頃から地方生活が長く、他の太子党の友人らと派閥としての強いつながりはなかった。
それでも習氏が総書記になれたのは、江沢民(ジアン・ズォーミン)元国家主席派と胡錦濤(フー・ジンタオ)前国家主席傘下の共産主義青年団派(団派)のつばぜり合いのなか、江氏らが団派への対抗馬として習氏を推した背景がある。習氏自体は江派というわけではない。総書記就任当時、習氏が指導部で心を許せたのは、中央政治局常務委員入りした王岐山(ワン・チーシャン)氏や中央政治局員・中央弁公庁主任に就いた栗戦書(リー・ジャンシュー)氏ら2人の旧友ぐらいだった。
2017年に2期目に入ると、政権の様相はがらりと変わった。中央政治局25人中、習氏の勢力は6割まで拡大した。1期目は旧友が習氏を支える形が目立ったが、2期目に入ると、習氏が福建省や浙江省、上海市に赴任した際に出会った腹心の部下たちが続々と中央政治局に加わった。代表格は李強・上海市党委書記や陳敏爾・重慶市党委書記、丁薛祥・中央弁公庁主任らで、習氏に絶対的な忠誠を誓う忠臣といえる。これにより明確な習派が形成された。
党内権力の
「破壊と再構築」写真は共同
習氏の権力掌握の道のり――。それはすなわち江氏が築き上げた中国共産党内の権力構造を破壊し、再構築する過程そのものだった。江氏は中国の急速な経済成長とともに生まれた様々な利権を周辺に分配することで、自身の権力を固める手法をとった。「執政10年院政10年」と例えられる権勢を支えた力の源泉だ。結果として党内には権益などに基づく派閥が跋扈(ばっこ)し、汚職や腐敗も横行し、党の指導力は有名無実化していった。江氏の後を継いだ胡錦濤氏も江氏が築いた党内構造を覆すことができなかった。
習氏は党総書記に就任後「反腐敗闘争」を掲げ、江沢民時代に権力や利権を握った幹部らを根こそぎ失脚させていった。表面的には江派と習氏の権力争いにみえるが、習氏側からみれば、分散した利権や権限を党のもとに回帰させ、党の指導の一元化を図る「中国共産党再生への道のり」だった。
あらゆる権限は
総書記のもとに「反腐敗闘争」は苛烈なものだった。中央から地方まで利権に連なる様々な階層の党・政府幹部が次々と処分された。習氏の総書記就任以来、立件対象となった高級幹部は2万人を超える。テレビでは腐敗幹部本人が刑務所からみじめな様子で登場するドキュメンタリー番組がたびたび放映され、庶民の留飲を下げる役割を果たした。
習氏の就任以来、政府※・党幹部の
腐敗汚職などによる
※2012年12月~21年5月
党内を震撼(しんかん)させたのが14年に起きた周永康・元中央政治局常務委員の失脚だ。「最高指導部である中央政治局常務委員は裁かれない」という不文律を覆し、周氏の党籍を剝奪して無期懲役とした。党幹部らのマネーロンダリング(資金洗浄)を担っていた企業家たちへの処分はなお厳しく、死刑を含む厳罰に次々と処せられた。
なかでも国有不良債権処理会社のトップを務めた頼小民氏は二審で死刑判決が確定した後、わずか8日後に処刑された。習氏は粛清で空いたポストに子飼いの側近たちを就けていくと同時に、組織改革・軍・司法・財政・インターネット管理など様々な重要分野で「小組」という党内特別組織をつくり、自らトップに就任した。「小組治国」とも呼ばれ、権限の集中が進んだ。今の権力の形は18年ごろまでにはほぼ完成されたといえる。
幹部失脚と並行して
様々な部門で習氏がトップに就任
軍の腐敗と縦割りを一掃
「建国以来」の大改革へ
人民解放軍を掌握できるかどうかは最高指導者の権力を左右する重要な要素だ。軍に基盤がなかった江氏は、軍においても幹部らに大きな利権を与えることで彼らの忠誠を得た。そのつながりは強く、江氏と同じく軍に基盤がなかった胡錦濤氏は任期中、思うように軍を統制できなかった。当時、膨張する軍事費を背景に軍の腐敗はすさまじく、中央軍事委員会委員・政治工作部主任という要職にあった張陽氏は「いつも人民元を麻袋に入れて山積みにしている」という噂から「麻袋上将」というあだ名で呼ばれるほどだった。
一方、習氏は父親が革命の英雄であり党の八大元老でもある習仲勲氏であり、もともと軍のプリンス的存在という優位性があった。さらに福建省時代には、台湾海峡と対峙する南京軍区で地元の軍人らとの親交を深めてきた。習氏はそうした背景を生かしつつ、軍にも「反腐敗闘争」を仕掛け、江氏に連なる人脈を徹底排除していった。14~15年にかけては軍の実権を握っていた元制服組ツートップの粛清も断行した。
軍を牛耳る江派幹部を粛清
改革でトップダウン実現
対米「強軍」戦略を推進
軍閥のように権勢を誇っていた腐敗幹部らを排除したことで、習氏は「建国以来」といわれる大規模な軍改革に踏み出すことが可能となった。「総参謀部、総政治部、総装備部、総後勤部」の4総部をなくし、様々な現場が中央軍事委員会に直接ぶらさがる形とした。全国7つの軍区は5つの戦区に変え、米軍のようにそれぞれに作戦能力を与えた。陸軍偏重のスタイルから、陸海空軍やサイバー部隊を含む戦略支援部隊、ロケット軍を並列とし、武装警察(武警)やその傘下にある海警局も軍事委員会の管轄とした。すなわち軍事委主席である習氏があらゆる軍事勢力を統括するとともに、習氏の指導のもとで従来の「防御型の軍隊」から「南シナ海や東シナ海で米軍に対抗しうる軍隊」へと発想の転換を図った。
人民解放軍への強力なグリップ――、それは今に続く習氏の権力の重要な柱といえる。縦割りを打破し、トップダウンを実現したことで、それまでなかなか進まなかった軍民融合や統合作戦能力の深化など習氏の「強軍思想」を挙国体制で進めることも可能となった。
習派形成の軌跡
側近軍団の顔ぶれそれでは習氏は自らの派閥をどのように形成していったのだろうか。習氏の軌跡と人脈をたどる。
旧友&父親に関連する軌跡
北京市→陝西省延安市→清華大学→中央軍事委員会→河北省正定県
この時期に関連して仲間にした人物
中央政治局員
全国人民代表大会常務委員会委員長
中央政治局員
中央政治局員
習氏は15歳の時に知識青年として農村に赴き、多感な7年間を陝西省延安市梁家河村という貧しい村で過ごした。その時、隣村にいた友人が王岐山氏だ。栗戦書氏は習氏の最初の地方勤務地、河北省正定県の隣県で党書記を務めた「酒友」として知られる。貧困村での経験が習氏に与えた影響は大きく、当時の友人は習氏にとっても特別の存在だ。
清華大学時代のルームメートだった陳希氏は長年清華大に勤めていたが、習氏の中央入りとともに党・政府幹部として目覚ましい出世を遂げた。幼なじみの張又俠氏は軍制服組として習氏の軍改革で重要な役割を果たした。いずれも1期目から習氏を政権内部で支えた。さらに張氏は3期目政権発足時に72歳の高齢だったにもかかわらず、中央政治局員と中央軍事委員会副主席に再任された。
上記リストのうち李希氏だけは習氏と直接の関係はなく、知り合った時期も遅い。李氏は甘粛省や陝西省で地方幹部をしていた際、習氏の父親の習仲勲氏の武力蜂起を聖戦としたり、習氏が過ごした梁家河村の聖地化を図ったりして習氏の側近になった。父親や農村時代への習氏の思いの深さが推察できる。
福建時代の軌跡
厦門市→寧徳市→福州市→福建省長・省党委副書記
この時期に仲間にした人物
中国人民政治協商会議副主席
中央政治局員
中央政治局員
中央政法委員会副書記
中央軍事委政治工作部主任
福建省に赴任した習氏は厦門市の副市長を皮切りに、転勤を重ねながら出世の階段を上り始めた。そのころ公私両面でつきあった側近らへの信頼は厚い。
2期目の政権では、彼らに経済、プロパガンダ、司法・公安、軍など党の柱というべき分野でそれぞれに要職をゆだねた。特に3期目政権では、何立峰氏はマクロ経済・金融の司令塔、王小洪氏は司法・公安を一手に束ねるトップを務める。何衛東氏は中央軍事委員会副主席の1人として制服組トップに就いた。何氏は台湾が支配下に置く金門島を管轄する旧南京軍区第31集団出身のベテラン軍人で、習政権下では第31集団軍を出てめざましい出世を遂げ、台湾海峡に面した東部戦区の司令員も務めた。同じく中央軍事委員会委員に就いた苗華氏とともに、習氏が福建省時代に交流を重ねた軍人たちといわれる。軍では「台湾海峡閥」ともいわれる。このグループの面々は名実ともに習政権を支える屋台骨のポジションに就いている。
このグループは福建の川の名である「閩江」を使って「閩江旧部」とよばれている。
浙江時代の軌跡
省長→省党委書記
この時期に仲間にした人物
中央政治局員
中央政治局員
中央政治局員
中央政治局員
2002年に浙江省に転勤した習氏はすでに太子党のプリンスとして注目を集める存在になっていた。この時期に習氏の側近となった李強氏や陳敏爾氏は、習氏の優秀なスタッフとして習氏の信頼を得た。特に李強氏は2年半にわたり党の秘書長として習氏の「女房役」を務めた。しかも李氏は習氏自身の強い意向で秘書長に抜てきされたといわれている。その絆は強く、李氏は副首相や中央のポストでの経験もないままに、異例の抜てきで首相の座を射止めた。
黄坤明氏や蔡奇氏は習氏とほぼ同時期に福建省から浙江省に異動し、傘下の市トップとして習氏を支えた。このグループは浙江の別名である「之江」を使って「之江新軍」とよばれている。
上海時代の軌跡
市党委書記
この時期に仲間にした人物
中央政治局員
浙江省党委書記として同省のめざましい経済発展を実現した習氏は2007年3月、中央への登竜門となる上海市党委書記に就任した。同年10月の党大会で習氏は中央政治局常務委員入りを果たしたため、上海勤務はわずか7カ月間だったが、習氏はそこで秘書を務めた丁薛祥氏を見いだし、党総書記就任とともに中央に引き上げた。丁氏は3期目政権で中央政治局常務委員入りしたうえに、筆頭副首相ともなった。習政権下でも指折りの〝シンデレラボーイ〟といえる。
中央時代の軌跡
習氏は行く先々で有能な人材や信頼できる部下を見いだしては自身の側近としてきた。彼らは習氏とは完全に上下の関係にあり、今後、中国共産党の集団指導体制がさらなる1強体制へと移行していくのは避けられない。
一方、習派は利権で密接につながった江派や仲間意識の強い共青団派とは異なり、派閥としての横のつながりは薄く、むしろ習氏の「寵愛」を競うライバル同士の関係にある。今後、指導部の大半が習派で占められていくなかで、習派というグループがどう変質していくかは政権の先行きを左右する一つの要素となりそうだ。
習氏待つ一極体制のリスク
世界の不安定要因に
習氏は10年をかけて党の統治を立て直した。今や党の指導は中国社会のすみずみまでいきわたるようになったが、3期目以降の習氏を待つのは一極体制のリスクだ。米中対立や台湾問題、国内経済の失速など、中国を取り巻く環境は厳しさを増している。14億人国家のかじ取りを一手に引き受けた習氏は「正しい選択」を続けていけるのか――。世界はいまだかつてないリスクに直面しようとしている。
- column -
習氏 毛沢東超えめざすか
習氏は毛沢東を模倣しているとよくいわれる。強力なトップダウンや党の指導の一元化、容赦ない政敵の追い落としは毛の権力スタイルそのものだ。権力掌握のために使ったツールもよく似ている。「歴史決議」による権威の確立や思想教育を通じた個人崇拝の強化――、すべて毛が歩んできた道だ。
IT起業家や芸能界への圧力や「共同富裕」のような社会主義的政策は文化大革命の再来かともささやかれた。習氏は今後、毛の「党主席」ポストの復活をめざすといわれる。党内では習氏の称号を毛と同じ「領袖」とする案も議論されている。実現すれば、習の位置づけは毛に並ぶ指導者となる。
毛にも実現できなかった目標があった。一つは社会主義革命の世界への拡大だ。さすがに革命は無理としても、習氏はすでに広域経済圏構想「一帯一路」への参加国などに向け「中国式統治モデル」を輸出し始めている。もう一つは台湾統一だ。仮にこの2つを実現できれば、習氏は毛を名実ともに超えることが可能となる。果たして習氏は「毛沢東超え」をめざすのか。1強を固めた習氏の野望は世界の行く末をも左右する。