スクロール

スクロール

日本の生乳生産を
支える北海道
担い手の酪農家が
2日に1戸のペースで
消え始めた

異常事態が
現場で進行している

シリーズ:解剖
経済安保

砂上の食料供給網

酪農家にとって、搾乳するために毎月一定数生まれる子牛は大事な収入源だ。雄は肉用牛として競りなどを通じ、畜産農家に販売される。

10月上旬、北海道旭川市の中央市場で競られた子牛の最低価格は1100円だった。健康状態が良い個体の価格も暴落しており、これまでの底値とは質が異なる。「生むほど赤字」の異常事態だ。

前例のない飼料価格の高騰が子牛市場をゆがめる。コスト上昇と子牛価格の下落という二重苦が、酪農家を襲う。

「こんなに先の見えない不安は初めてだ」。旭川市で酪農業を営む前田哲也さんはいう。購入飼料は倍近く値上がりし、新たな設備投資にも踏み出せなくなった。

生乳価格の見直しや補助金などでは、コスト高を十分に吸収できない。「この機会に廃業する仲間が昨年からぐっと増えた」。憂いの渦は道内に広がる。

「衣食足りて礼節を知る」――。社会の安寧を保つため、国民を飢えさせないことが国家運営の最も重要な役割となる。飽食の時代を謳歌してきた日本だが、途上国で多発する食料危機は無縁ではない。危機は静かに忍び寄る。先進国で食料自給率が低い日本の急所はどこか。食卓を彩る畜産品から水産物、野菜などの需給状況をビジュアルデータで考察した。

01

酪農
クライシス

子牛価格の暴落は、日本の食料安全保障の死角をあらわにした。国内最大の酪農地帯を揺さぶる異変は、経済安全保障と密接に関わる「食の未来」を暗示する。

価格下落の出口は見えない

生後1カ月ほどの子牛は、生まれたてで体が乾いていない例えから「ぬれ子」と呼ばれる。中でも足元で価格下落のあおりを受けているのがホルスタイン雄のぬれ子だ。

子牛の平均価格

忍び寄る食料危機、砂上の供給網
(注)ホルスタイン雄
(出所)ホクレン家畜市場の公表資料をもとに日経作成

ホクレン農業協同組合連合会によると、道内市場で競り落とされたぬれ子の平均価格は10月で5万円強と、この5年で6割下落した。最低価格が110円の月もあり、相場全体の低調は続く。

高齢化や後継者問題にくわえて、経営コストの上昇が負担となっている。北海道農政部によると、道内の酪農家の離脱戸数は年間200を超す見通しだ。

輸入飼料に依存する畜産

食卓に欠かせないお肉。農林水産省によると、2022年度の肉類全体の食料自給率は53%だが、家畜に与える飼料まで考慮した場合、自給率は8%にまで急低下する。スーパーで国産肉として売られていても、外国産の飼料を食べて育った牛や豚が大半だ。

純国産肉はごくわずか

純国産肉はごくわずか
(出所)農林水産省の22年度食料需給表(概算値)より日経作成

家畜の種類や目的にあわせて適切な栄養バランスを含む「配合飼料」の工場渡し価格は23年8月で1トン当たり約9万7500円と、過去2年で2割上昇した。ウクライナ侵攻にくわえて、円安や中国の需要増、気候変動などの複雑な要因が今回の飼料高騰を招いた。

飼料価格は高止まり

  • 配合飼料
  • 輸入トウモロコシ飼料平均
飼料価格は高止まり
(注)配合飼料は工場渡し価格(全畜種加重平均)
(出所)配合飼料供給安定機構「飼料月報」と貿易統計より日経作成

配合飼料に含まれるトウモロコシや大豆かす。仮に国産に転換できても、その生育に不可欠な化学肥料の一部は中国からの輸入に頼る。幾重にも重なるサプライチェーン(供給網)の川上は、安全保障リスクと常に表裏一体だ。

飼料のイメージ
02

絡み合う
複合リスク

飼料用穀物のほとんどを輸入に依存する日本は地政学リスクとも常に隣り合わせだ。供給力が限定される「薄い市場」を輸入国が取り合う構図は、「バタフライ効果」を生む。わずかなバランスの変化が、世界に大きな混乱を引き起こす。気候変動やパンデミックも多発するなか、多様なリスクが複合的に絡み合い、食料危機を増幅するシナリオも現実味を帯びる。

はね上がった飼料価格

トウモロコシや大豆などからなる混合飼料の価格は2022年2月を境に急騰した。近年、中国の輸入増などで上昇傾向にあったが、ロシアによるウクライナ侵攻が拍車をかけた。わずか1年間で一気に1万5000円以上はね上がった。高騰はなぜ起きたのか。

狙われた「欧州の穀倉」

肥沃な黒土が広がるウクライナは国土の約70%を農地が占める。世界における21年のトウモロコシの生産量は5位、シェアは3.5%。輸出は3位で世界の12.5%を担う「欧州の穀倉」だ。

狙われた「欧州の穀倉」

ロイター

ウクライナの農地の割合

ウクライナの農地の割合

ウクライナ産農作物の世界順位(2021年)

  • 生産
  • 輸出
品目別の世界生産順位と世界シェア
(出所)国連食糧農業機関

流通の力学が変化

ウクライナ産のトウモロコシは黒海を通じて運ばれる。主要港がロシアの占領下に置かれたことで、輸出は月100万トン以下まで落ち込んだ。突然の供給網の遮断で、主要貿易相手国は代替の供給先探しを余儀なくされた。

ウクライナ侵攻でトウモロコシ輸出量が激減

ウクライナ侵攻でトウモロコシ輸出量が激減
(出所)国連貿易統計

2020〜21年度でみると、トウモロコシの世界の総生産量約11億トンに対し国際貿易に回るトウモロコシの量は約2億トンと2割に満たない。ウクライナの輸出量にいたっては世界第3位とはいえ、2400万トンほどだ。穀物は、工業製品の国際貿易状況と比較してもとりわけ「薄い市場」だからこそ、わずかな需給バランスの変化が大きな市場価格の変動を引き起こす。

「全体の物量としては数%の減少でも、食料の価格は大きくつり上がりがちだ。現代の国際市場取引においてはどうしても投機的な値動きになりやすい」。三菱総合研究所の稲垣公雄食農分野担当本部長は解説する。

世界のトウモロコシの生産量と輸出量(2020〜21年度)

世界のトウモロコシの生産量と輸出量(2020〜21年度)
(出所)米農務省

22年7月の輸出再開までの間、行き場を失ったウクライナ産トウモロコシは、陸続きの欧州諸国に向かった。その結果、侵攻前から輸入量を増やしていた大消費国の中国やイランなど中東諸国には回らなくなるなど、大きな混乱を呼んだ。

ウクライナのトウモロコシの国別輸出量の変化

ウクライナのトウモロコシの国別輸出量の変化
(出所)国連貿易統計

高まる気候変動リスク

気候変動も不測の事態を引き起こす。2000年代以降、異常気象や天候不順の発生リスクが上昇した。干ばつなどで小麦やトウモロコシなどの主要産地が同時不作となり、世界の消費量が生産量を大きく上回る「需給ギャップ」が生じている。

国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の将来予測によると、気温上昇により、トウモロコシは米国やブラジルなどの日本の主要輸入国で大幅に収量が減る。2001~2010年を基準とした今世紀末の単収(農地面積あたりの収量)の変化率の中央値は、可能な限りの温暖化対策を施した場合のシナリオで中南米でマイナス約50%、北米でマイナス約10%になる。最も温暖化が進むシナリオでは中南米でマイナス約80%、北米でマイナス約30%と予測している。

世界の穀物の需給ギャップ

世界の穀物の需給ギャップ
(注)米農務省のデータ、農林水産省の資料を基に作成

繰り返す感染症

現代の食料危機は、リスクが複合的に重なり、供給網の混乱が増幅していく点に怖さがある。多発する感染症への警戒も欠かせない。アフリカ豚熱や鳥インフルエンザなどの国境を越える家畜伝染病や病害虫が増えており、2020年以降の新型コロナウイルスのパンデミックの際にはサプライチェーンが逼迫、国際的な物流の停滞も生じた。穀物需給を不安定化させる要因は多様化し、その影響は深刻さを増している。

増加する感染症リスク

2003〜
2005年

サバクトビバッタの大発生

アフリカなどで食料危機

2018年

アフリカ豚熱

流行した中国国内で2019年の豚肉生産量が約1100万トン減少

2020年

新型コロナウイルス感染症

経済活動の停滞やロックダウンなどで物流が混乱、食料の輸出規制も

2022年

高病原性鳥インフルエンザ

全世界で約1億4千万羽が殺処分、日本でも鶏卵価格が上昇

(注)国際獣疫事務局(WOAH)、中国国家統計局のデータ、農林水産省の資料を基に作成
ウクライナのイメージ

ロイター

03

揺らぐ
ニッポンの食卓

日本の食卓を巡る「安全保障」を検証すると、安泰とは言いがたい現実と直面する。世界で食料の調達リスクが高まる中、日本の足元も揺らいでいる。

食料自給率、
カロリーベースで4割

主要な食物の国内生産量と輸入量

  • 国内生産
  • 輸入
主要な食物の国内生産量と輸入量
(出所)農林水産省の2021年度「食料需給表」

農林水産省によると、日本の食料自給率は生産額で58%、カロリーベースで38%となっている。20年に策定された計画では30年にそれぞれ、75%、45%の目標を掲げるが、実現までの道のりは遠い。小麦やトウモロコシ、大豆をはじめ多くを海外から賄っている。

生鮮品も海外から

アジア
ヨーロッパ
北米
中南米
オセアニア
その他

(注)海外比率の大きな産品や、特定の国への依存度が高い品目を抽出。

野菜

(出所)農林水産省より重量ベースで作成。国内生産は21年度、輸入は21年を基準にした

生鮮品も輸入に依存する品目は多い。野菜であればにんにくやタマネギは中国から、魚であればサケ、マスやカニなどの多くを海外からの輸入に頼る。

国内生産にも多くのリスク

国内生産の足場も揺らぐ。農水省が22年にまとめたリスク検証の報告内容を1枚のマップにまとめた。農水省は生産品目ごとに安定供給に関する問題を①どれだけ起こりやすいかを5段階、②起きた時にどれだけ影響を与えるかを3段階で評価している。

生産品目ごとのリスク評価

←低
高→

(注)農林水産省「食料の安定供給に関するリスク検証」は、リスクの起こりやすさを5段階、影響度を3段階で評価している。日本経済新聞で点数化した。

例えば牛肉の供給に関する労働力不足リスクを見てみよう。①起こりやすさは5段階目、すでに顕在化しつつある。②の影響度は3段階目、生産・供給に関する被害が甚大という評価だ。①と②の評価をもとにした総合的なリスクは一番高い茶色を示している。

一覧で見てみると、労働力不足や温暖化、肥料高騰などの問題が幅広い品目で高リスクとなっていることが分かる。

くすぶる肥料リスク

特に肥料はロシアのウクライナ侵攻で価格が急騰した。日本は原料となる窒素、リン酸、塩化カリウムはほぼ全量を輸入に頼る。供給国の中国が自国内の流通を優先し輸出制限もかけたことも拍車をかけた。肥料は農業経営のコストのうち10%前後を占めるともいわれる。足元の価格は落ち着きを取り戻しつつあるが、高騰が頻発すれば、国内の農業基盤を揺るがしかねない。

肥料価格は2022年に急騰した

  • 尿素
  • 塩化カリウム
  • りん肥
窒素、リン酸、カリの価格推移
(注)2020年平均を100として指数化、23年は概数
(出所)農林水産省
農業のイメージ

立ち向かう農家

自給率の改善に向け、酪農家や稲作農家が様々な施策で逆境に立ち向かっている。その1人が大規模酪農のカーム角山(北海道江別市)を運営する川口谷仁代表取締役だ。

高騰する配合飼料の一部、干し草からなる粗飼料を地元の稲作農家と自前生産する体制を23年に整えた。乳牛は1日に40キロの配合飼料を食べる。そのうち25キロ分の粗飼料を、実が熟す前に茎ごと刈り取った稲を袋に詰めて発酵させた国産の「稲ホールクロップサイレージ(WCS)」に置き換えた。年間300万~400万円のコスト圧縮につながるうえ、その栄養価も輸入した干し草と遜色ない。

刈り取った飼料用トウモロコシの袋詰め作業
刈り取った飼料用トウモロコシの袋詰め作業

稲作農家にとっても新たな水田活用策となり、カーム角山とウィンウィンの関係を築いている。背景にあるのが水田活用の交付金見直しだ。田んぼに定期的に水を張る必要が生じ、これまで制度に沿って畑地転換に取り組んできた農家が補助金の対象外となる可能性が出た。

畑だった土地に突然水を張っても、食卓向けの稲はそう簡単にできない。「粗飼料の稲WCSを買い取ってくれるカーム角山は『救世主』だった」。農業生産法人の輝楽里(江別市)の石田雅也社長は話す。稲WCS以外の飼料用作物生産に向け、新たな実証実験にも着手している。

発酵させるため袋に詰めた稲WCSと、輝楽里の石田雅也社長
発酵させるため袋に詰めた稲WCSと、輝楽里の石田雅也社長
北海学園大・宮入隆教授

北海学園大・宮入隆教授
「食生活の見直し、
議論が必要」

輸入飼料の価格上昇にくわえて、円安の影響や資材・燃料費の高騰が直撃している。大規模農家ほど打撃が大きく、これまで機械化や自動化を進めてきた設備投資の負担が重くのしかかる。

農業は文化や国境政策と密接に関わっている。特に欧州ではそうした考えが根付いていて、行政が率先して農業を支援することに異論が出にくい。日本は「農業は守られすぎている」という考えが浸透してしまっているのではないか。工業などと異なり、政策支援をあらかじめ必要とする産業である点を留意すべきだ。

これだけ自給率が低く、食料の純輸入国となった先進国はない。背景には農業問題だけでなく、消費者の食生活の変化によるところも大きい。日本の気候や文化にあった農業生産は何か。それに沿って自らの食生活を変化させる我々の努力も重要だ。安全保障に絡む食料問題は今後も先鋭化する恐れがあり、数十年後に食料危機が訪れる可能性は否定できない。