権力の中枢で
「当たり前忘れず

菅義新首相の歩み

NIKKEI The STYLE 2019年1月27日付「My Story」をもとに再構成し、必要な情報をアップデートしました。

内閣の大番頭で危機管理の司令塔、官房長官を連続で務めた期間は2800日を超えて歴代1位。1日24時間、365日の激務をこなす菅義偉さんが何よりも大事にするのは「普通」であることだ。雪深い故郷の暮らし、そしてもがき続けた青春時代の視点を決して忘れない。

すが・よしひで 1948年秋田県生まれ。法政大学卒。民間企業、議員秘書、横浜市議を経て国会に。総務相や官房長官を歴任。安倍晋三首相を2度にわたって自民党総裁選に担ぎ出し、勝利させた。派閥には属していない。永田町の実力者では珍しくなった「たたき上げ」の政治家。2019年4月1日、新元号「令和」を発表した。

人、人、人。菅さんの1日は人との面会であふれている。朝と昼に1件ずつ、夜の会合は「2階建て」で2件をこなす。もちろん通常の執務での面会や会議は首相官邸でひきもきらない。平日だけではない。「土曜日、日曜日は自分がやらなきゃいかん、と思っている課題を、まず勉強する意味でいろいろな人の話を聞く」機会にしている。

官房長官になってから、この習慣はほとんど毎日、続けている。横浜市の自宅には一度も泊まっていない。そこまで人に会い続けるのは、なぜか。「市民や国民からみて当たり前のこと、ふつうのことをしっかりやりたいからです。何が当たり前なのかを、自分で見極め、判断する。そのために、できるだけ多くの人に会って、いろんな話を聞くんです」。人に会うことそのものが、自らのエネルギー源でもある。

「辻立ち」の先駆け
世間を肌で感じる

2018年12月、矢後衛撮影

権力の中枢にいるからこそ、当たり前、普通の感覚を常に探し続ける。今となってはよく見かける、都市部の駅前での国会議員の「辻立ち」は、新人のころに菅さんが始めた。団体を集めて建物の中で気勢をあげる「ハコもの」が全盛だった時代に、駅前で「おはようございます」と挨拶し、その時々の政策課題を並べたアンケート用紙を配った。

関心のあることにマルをつけてくださいってね。それを知った当時の民主党の人が何人か、わざわざ事務所までもらいに来ましたよ」。世間の空気を肌で知る姿勢には年季が入っている。

ストイックなほど仕事に入れ込む原点は故郷、秋田にある。実家はいちご農家。「両親は働き者で、私が起きたころに畑から帰ってくる。田舎の人は皆、そうですよ」

野球の練習に打ち込んだ中学時代(右上)

雪の多い高校生活、冬場は下宿で過ごした。厳しい冬にも必ず雪解けはあり、雪に埋もれていた地肌がみえてきて、春を実感する。「この感覚は田舎の雪国で暮らしている人にしか分かりません。忍耐強い性質は、知らないうちに田舎が育ててくれた」

東京に行けば何かある、というくらいの思いで上京するが、ほどなく壁に突き当たった。「このままじゃ自分の人生、あまりに寂しいなと思って」町工場で働く生活に区切りをつけ、2年遅れで法政大学に入学する。昼夜のアルバイトなどで学資を稼いで4年間の大学生活を終え、さて秋田に帰らなければとも思うが、その前に一度は東京で就職してみようと、民間企業に勤めた。

法政大学時代は空手で心身を鍛えた(右端)

何をすべきなのか、自問にようやく答えが出る。「世の中が見え始めてきて、この世の中を動かしているのは政治じゃないかな、と」。その舞台に関与する生活をしてみたい……。

ところが何の伝手(つて)もなかったので、母校・法政大学の就職課に行き、いきなり「先輩の政治家を紹介してください」と頼んだ。ただ、その時点では政治家になれるとは思っていないし、政治家になるつもりもない。OB会の事務局長を紹介してもらい、その縁から横浜市選出の小此木彦三郎衆院議員の秘書になる。1975年、26歳の時だった。「今から考えると、よく行動したな、と思いますよね」と菅さんは最初の転機となった当時を懐かしむ。

2018年12月、矢後衛撮影

議員秘書の場を得たのもふるさとの秋田ではなく、都会の横浜だ。そこには将来を見据えて地盤、看板を意識した野心も山っ気も、微塵(みじん)も感じられない。そもそも政治志望で大学の就職課に相談する学生は、ほとんどいない。

しかし、職を得るときに就職課へ行ってみようと思うのは、普通の学生にとっては当たり前の行動でもある。「普通、当たり前」の感覚は、政治を志した最初に、すでに芽生えている。

「造反」も普通のこと
永田町に名響かす

38歳、横浜の市会議員への立候補が次の転機だ。秋田出身、地縁も血縁もない。ライバルからは「菅は選挙に落ちたら秋田に戻るぞ」と攻撃される。それなら、というので、プロフィルに「秋田県出身」とはっきり書いてみた。すると「俺も地方出身なんだ」と支援が広がり、当選を果たす。

この時は知名度もなく6歳、3歳、1歳の子供を抱えての選挙だったので、一番、大変だった。いろんな人たちがいて、いろんな生活があるんだな、と実感した」。故郷への想(おも)いは自らが発案したふるさと納税の原点にもなった。

1987年、横浜市議に初当選した(左)

市会議員を2期8年務め、96年に国会議員になる。永田町で「菅義偉」の名前が知れわたったのは2年後の98年、自民党総裁選だった。自分がいた平成研究会の会長である小渕恵三さんではなく、同じ派閥の梶山静六さんを支持し、一緒に派閥を飛び出す。当選1回の新人には考えられない「造反」だった。

当たり前のことをやるのに、どうしてこんなに皆に心配されるのか不思議だった」。金融不安が世を覆っていた当時、梶山さんは「大銀行の数が多すぎる。2つか3つでいい」とハードランディング(強行着陸)路線を提唱し、菅さんも「まったくその通りだ」と思っていた。「総理大臣にしたい人を応援するのは当たり前じゃないですか」。この時も行動原理は「当たり前」にあった。

梶山さんも務めた官房長官ポストに就いて7年目になる。「何かがあるはずだ、をずっと求めてもがき続けていた」青春時代があるだけに、危機管理で四六時中、官邸を離れられない現在も「自分は何をやりたいのかを見つけて国会議員になったんですから。責務だと思ってます」。1日24時間、全てが仕事の毎日を「当たり前」とし、おかしいことはおかしいと思う普通の感覚を常に確かめて過ごす。

国会議員は「死ぬまで政治家」という人も多い。菅さんは。「めどがついたらフィリピンのセブに行って3カ月くらい、語学学校に入って。それで片言の英語を話せるようになって1、2年ゆっくり世界を旅行したいね。ウチの事務所にインターンで来てた学生が行ったんだけど、語学学校、結構安いんだよ」