日本の近海で長年見慣れた魚たちがすみかを追われている。地球温暖化により海水温の上昇が止まらないためだ。明治時代から記録の残る相模湾の魚種の変遷をたどると、未来の海の姿が浮かび上がった。
「ここ数年で南の魚が増え、夏の魚が冬にも網に入るようになった。こんな事態は初めてだ」。定置網漁師として60年以上、相模湾を見てきた高橋征人さん(81)は変化を肌で感じる。
異変を探る手がかりが東京大学総合研究博物館(東京・文京)にあった。4階最奥の資料室には、歴代の研究者らが収集してきたエタノール漬けの魚の標本が天井近くまで所狭しと並ぶ。
このうち相模湾産は約9000点。古くは100年以上前から残る。「三崎 明廿六年一月」「大正八年六月」ーー。墨で書かれたラベル越しにガラス瓶をのぞくと、魚たちが今にも泳ぎ出しそうな姿で時を止めていた。
変貌する相模湾
太平洋に開ける相模湾。南からの暖かい黒潮と北からの冷たい親潮に乗ってさまざまな魚が集まり、季節ごとに目まぐるしく移り変わる。すり鉢状の湾底に浅瀬や深海など多様な地形が入り交じり、日本近海の自然を詰め込んだ「箱庭」のような環境を作り出す。
相模湾の魚が古くから研究対象とされてきたのは、その多様性ゆえだ。日本の領海のわずか200分の1の面積に日本の全魚種の4割に相当する約2000種が生息する。
日本経済新聞は神奈川県立生命の星・地球博物館の和田英敏学芸員らと共同で、魚類標本や論文などをもとに、これまでに相模湾で確認された1956種のデータベースを作成した。魚種ごとの主な分布海域を寒帯から温帯、熱帯まで7段階に分類し、登録時期別に集計した。
100年以上に及ぶ時系列調査からは、熱帯性の強い魚の種類が近年急速に増えつつある実態が分かった。
相模湾魚類の分布域の割合
- 冷
- -3
- -2
- -1
- 0
- 1
- 2
- 3
- 温
明治中期から昭和初期にかけての50年間(1890〜1940年)に記録が残る673種を分析すると、沿岸の漁業で取れるブリやマダイなどの温帯種(スコアは0または1)が中心で、全体の7割以上を占めていた。
2006年までに確認されたのは1549種。熱帯や亜熱帯域に分布する2や3のスコアをもつ魚種が増加し、全体の45%を占めるようになった。
2024年までに確認された1956種では、2と3が全体の49%に達し、半数に迫る。
近年どのような種類の魚が増えているのか、06年時点と24年時点のデータを比較してみた。
熱帯性の強いグループで数が増加
この20年弱でクマノミなどで知られるスズメダイ科やハタ科は1.5倍以上に増えた。サンゴ礁域や岩礁域を中心に分布するテンジクダイ科は1.4倍、カラフルな体色の種類が多いベラ科も1.2倍になった。熱帯性の強い魚のグループで増加が際立つ。
和田学芸員は「目立つため比較的発見されやすいが、近年の勢力の拡大は異常だ。相模湾が急速に熱帯化している証しといえる」と話す。
冬を越す熱帯魚
最近では相模湾で越冬する熱帯魚も現れている。通常、熱帯・亜熱帯性の魚は水温が15度以上の環境でしか生きられない。夏に湾内に流れ着いても、水温が最も低い2月ごろには死滅するとされていた。
ところが、生命の星・地球博物館が所蔵する魚類写真資料を調べると、19年以降の3〜5月に相模湾周辺で地元ダイバーが撮影した熱帯魚の写真が多数見つかった。成長している姿から冬を越したとみられる。
冬の相模湾を生き延びたとみられる
熱帯魚月別の湾内の平均水温を調べると、近年は冬になっても15度を下回らない年が増えていた。神奈川県水産技術センターは、相模湾の年平均水温はこの約60年間で1度程度上昇したと分析している。
相模湾の平均水温
「1990年代には想像さえしなかった光景だ」。30年以上にわたり相模湾の魚を観察してきた魚類学者の瀬能宏・生命の星・地球博物館名誉館員は、越冬熱帯魚の増加に危機感をにじませる。
瀬能氏はこう続ける。「このまま海水温の上昇が進めば、近い将来、熱帯性の魚が群れをなして泳ぐ沖縄のようなサンゴ礁の海が広がることになるだろう」
取れる魚も変わりつつある。相模湾は古くから沿岸漁業で栄え、江戸時代に始まった定置網漁は約200年の歴史を持つ。湾で取れたマグロなどの鮮魚は江戸城下に送られ、今に至るまで首都圏の食文化を支えてきた。
主要大型定置網での漁獲量
1977年からの湾内の主要大型定置網の漁獲データを調べると、近年は熱帯から温帯の暖かい海に生息するシイラが増加し、冷たい海を好むサンマが2013年以降はほぼ取れなくなっていた。
北を目指す魚
異変は相模湾に限った話ではない。日本近海の海面水温は年々上昇している。
気象庁によると、23年の年平均水温は統計を開始した1908年以降で最も高くなった。日経の分析では、8月の海面水温(10年移動平均)の平年からの上昇幅は年々大きくなっている。
平年と比べた8月の海面水温
- +1.5度
- -1.5度
海は地球温暖化で蓄えられた熱エネルギーの約90%を吸収する。その蓄熱量は、1990年代半ば以降加速的に増大している。赤道域から日本南岸に沿って北上する暖かい黒潮の変動や、エルニーニョなどの気象現象、短期的な気象条件といった複数の要因も複雑に絡み合い、日本近海の海水温を押し上げている。
水温が上昇すると、食物連鎖の出発点となるプランクトンが減少する。海水が上下に混じり合う力が弱まり、栄養が不足するためだ。魚は適温の海域やより豊かな餌場を求めて移動していく。
全国127漁港の水揚げ量の時系列データと漁港の位置情報を用いると、主要な海産物の産地の地理的な重心を計算できる。23年までの20年間で「西日本の魚」として知られるタチウオやサワラ類、沿岸域に生息するスズキやカレイ類、タコ類などで北東方向に移動していることがわかった。
水揚げ量の地理的重心が北東へ移動
明治期からの漁獲量の長期変化を分析している水産研究・教育機構の亘真吾・漁業管理グループ長によると、これまでもブリなどは環境変化を受けて重心移動を繰り返してきた。「近年はその度合いが過去100年間で一番大きい」と指摘する。西日本での不漁なども重心移動に影響しているとみられる。
痩せる魚
マサバの平均体重の推移
魚同士の生存競争は激しさを増している。太平洋側に分布するマサバの体重を調べたところ、直近の22年は10年ごろと比べておよそ半減していた。餌不足で、少しでも魚の数が増えると痩せてしまうためだ。
東京大学の伊藤進一教授はマイワシなどの13魚種が10年代以降に小型化したことを確認した。伊藤氏は「今のような脂ののった魚は食べられなくなる日が来るだろう」と予想する。魚の成熟が遅れ、サンマのような回遊魚も日本にやってこなくなる可能性があるという。
高級化する庶民の味
海の中の変化を実際に目にすることはほとんどない。スーパーではいつも通り見慣れた魚の切り身が並んでいる。だが、ゆっくりと着実に私たちの生活にも影響が広がりつつある。
主要な魚介類70品目の2003~05年平均と21~23年平均の比較
主要な魚介類70品目の全国127漁港での水揚げ量と平均価格の過去約20年間の変化を調べると、約6割の品目で量が減り、値上がりしていることが分かった。
03〜05年平均と21~23年平均の比較では、「秋の味覚」のサンマは量が約11分の1に減少し、値段は6.5倍に高騰した。冷たい海を好むスルメイカや、日本が分布南限のシロザケを含むサケ類も3倍以上に値上がりし、身近な食材ではなくなりつつある。
品目ごとの価格変化
将来の漁業を担う若手漁師にとって深刻な問題だ。小田原の定置網漁師、草野洋佑さん(34)は訴える。「日本産の海産物が1魚種ずつ減っていく未来が見えてきている。この現状を変えていかなければ、回転ずしに輸入や養殖のサーモンと遠洋漁業で取れるマグロしか回らない世の中になりかねない」
日本の伝統的な魚料理の素材がそろわず、食文化そのものが大きく変わる可能性もある。半世紀以上にわたり相模湾の水産研究に携わってきた木幡孜さん(89)は「輸入に頼るのではなく、地域で取れる魚の変化に合わせて私たちの食習慣や文化を適応させていく必要がある」と話す。東大の伊藤氏も「地産地消は輸送コストを下げ、温暖化ガスの排出削減にもつながる」と指摘する。
沖縄を中心に食される熱帯・亜熱帯性の魚は本州などでは食べる習慣や技術がなく、現在は市場で値がつかず処分されることがほとんどだ。南方系の魚は北方系に比べて多様性に富む半面、まとまった量が取れづらいといった課題もある。
小田原漁港のそばで地魚を使ったすし屋を営む宮澤徹さん(40)は、こうした「未利用魚」の活用を模索する。「元いた地域ではおいしく食べられてきたはず。他地域の文化や調理の工夫をうまく取り入れて、僕らが市場価値を高めていきたい」
生物の変化に文化が追いつくには時間がかかる。新たな漁獲や加工の技術、流通方法も求められる。加速する温暖化に対し、社会全体が取りうる現実的な適応策とは何か。私たちは今、その転換点に立っている。
調査手法
相模湾魚類のデータベース 神奈川県立生命の星・地球博物館の和田英敏学芸員らと共同で、これまで相模湾で確認された魚類約2000種のデータベースを作成した。東京大学総合研究博物館や生命の星・地球博物館、国立科学博物館が所蔵する標本・写真資料6万点以上や論文などの文献情報をもとにした。各魚種について、日本産魚類の図鑑「日本産魚類検索 全種の同定 第3版」(中坊徹次編)や他の文献情報と照らし合わせ、主な分布海域を特定した。分布海域は寒帯域から熱帯域まで7段階に分類し-3〜+3のスコアを付与した。
相模湾の平均水温 神奈川県水産技術センターが保有する1965年以降の相模湾と相模灘の水温データを用い、月ごとに計26地点(水深10メートル)の平均値を算出した。同センターの赤田英之氏らの論文を参考にした。
水揚げ量の地理的重心 2003年以降の水産庁水産物流通調査で継続してデータを所得できる全国の主要127漁港を対象にした(調査対象港が大幅減となった07、08年を除く)。品目ごとに各港の緯度・経度を水揚げ量で加重平均して地理的な重心を算出した。水産研究・教育機構の亘真吾氏らの論文を参考にした。
写真
冒頭の相模湾魚類 神奈川県立生命の星・地球博物館提供(瀬能宏氏、和田英敏氏撮影)
資料室の標本 東京大学総合研究博物館の「動物資料室2」にて撮影