残すか壊すか
震災遺構が問う「記憶」
東日本大震災から8年
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東日本大震災の津波の猛威を伝える「震災遺構」の一つが、3月10日から一般公開される。宮城県気仙沼市の気仙沼向洋高校。教職員ら約50人が校舎の屋上などで難を逃れた。あの日から間もなく8年。遺構の保存・解体を巡る議論が続く。現地を訪ね、遺構がとどめる記憶をたどった。
教室のがれき今も
被災校舎を公開
気仙沼向洋高校 養護教諭の松本さん
「津波の威力、伝われば」
「今も信じられない」
2月26日、気仙沼向洋高の養護教諭、松本敦子さん(50)と遺構となった同校を訪ねた。「いまだに信じられない時がある。本当に震災があったのだと」。荒れ果てた保健室を見て、松本さんがつぶやいた。
なぎ倒されたロッカーには白衣や小物が入ったまま。3台あったベッドは1台しか見当たらず、消毒薬や書類の残骸が土ぼこりをかぶって散らばる。「洗濯機みたいに保健室中を物がぐるぐる回ったんでしょうね。残ったものもあれば、流出したものもある。不思議です」
避難
2011年3月11日。強い揺れに襲われた直後、「津波が来る」と確信した松本さんは1階の保健室からグラウンドに飛び出した。5人ほどいた教員が相談し「校舎では危ない。生徒を高台にある寺に避難させよう」と判断。引率役を決め、部活動をしていた生徒約170人の誘導を始めた。
テニスコートやグラウンドを回り、生徒がいないかを確認した後、保健室に戻った。3階と往復しながらガーゼや消毒液などの救急資材や毛布、生徒の個人情報が書かれた書類を運び上げた。津波警報が鳴り響き、南校舎の屋上へと避難した。
さらに高所へ
「津波だ!」。集まった教員ら約50人が海を見て固まった。第1波に続き、黒い巨大な壁のような第2波が押し寄せた。「怖い」と泣き叫ぶ女性職員。水位は容赦なく上がった。「少しでも高いところへ」。男性教員らが足場を組み、屋上にある鉄塔や階段室の屋根に上った。
脱出
日が陰ったころ、水位がやや落ち着いた。松本教諭らは渡り廊下を通り、北校舎へと移動した。渡り廊下の先にある北校舎の4階の床付近まで、水が達していた。カーテンや新聞紙を集めて暖を取り、自販機から取り出したジュースを1本ずつ口にした。
夜は、引き波で流されてきた家屋に取り残されている親子に声をかけつづけた。翌朝、流れ着いたボートを引きよせ、全員が無事に脱出した。
松本さんが日中の大半を過ごした保健室は校舎の1階にある。南に面しており、窓の外に広がるグラウンドで部活動に励む生徒の姿を眺める時間が好きだった。「震災前の室内の様子を、今もはっきりと思い出せる」
津波の到来後、北校舎と南校舎の間の中庭にはどす黒い水がしぶきを上げて渦巻いた。プレハブ校舎や鉄筋の冷凍工場が流され、校舎に激突した。緊張と興奮、安堵と不安――。松本さんはあらゆる感情が入り乱れ、空腹も感じなかったという。11日夜、気仙沼市内では大規模な爆発火災が発生。校舎から市の中心部の空が赤く見えた。
年2回行っていた避難訓練は生きた。地震後は津波に備えてすぐに高台へ――。震災当日も教員らの行動につながった。ただ、津波の猛威は想定を超えていた。訓練通り3階に運び込んだ書類は流された。えぐられたコンクリートや散らかった泥だらけの教科書、引き波で流されて折り重なった車。ただそこにあるだけで、静かに厳かにあの日を物語る。
気仙沼向洋高は18年に、1キロほど内陸に再建された。
今は新たな校舎で生徒たちが学んでいる。
震災伝承施設のピクトグラム
東日本大震災の教訓を次世代に伝えようと、宮城や岩手など被災4県と仙台市は国土交通省東北地方整備局を事務局とする「震災伝承ネットワーク協議会」を結成。「震災伝承施設」を募集している。協議会が認定する伝承施設では、津波と施設をかたどったピクトグラム(絵文字)を案内表示などに使う方針だ。
「思い出したくない」
取り壊し進む遺構
被災地では遺構の撤去が進みつつある。被災した住民には「思い出したくない」「復興を優先すべきだ」との思いが強い。保存で合意しても、整備や復元の費用が集まらず断念する例もある。
内陸に打ち上げられた
大型漁船「第18共徳丸」
(宮城県気仙沼市、13年9月解体着工)
当時
撤去後
気仙沼市で海から約800メートル内陸の県道まで流れ着いた全長約60メートルの大型漁船。市は当初、船を所有する水産会社から船体を借り、そのままにしていた。震災遺構として保存を目指したが、住民アンケートでは「つらい被災体験を思い出す」などとして約7割が撤去を求め、解体と撤去が決まった。
全壊した大槌町旧役場庁舎
(岩手県大槌町、19年1月解体着工)
当時
撤去後
津波で当時の町長と職員計28人が犠牲になった2階建て庁舎を保存するか、解体するか。町民を二分する議論が続いていた。18年3月の町議会で解体費用を盛り込んだ予算案が可決され、解体が決まった。
同8月、保存を求める住民団体が町長を相手取り、解体工事の差し止めを求めて盛岡地裁に提訴。地裁は19年1月17日の判決で請求を退けた。同19日、庁舎本体の解体工事が始まった。町は庁舎の掛け時計や職員が屋上への避難に使ったはしごなどを保存し、活用方法を検討する。
鵜住居地区防災センター
(岩手県釜石市、13年12月解体着工)
当時
撤去後
鵜住居(うのすまい)地区防災センターは津波襲来時の指定避難場所ではなかったが、その名称や震災8日前に津波の避難訓練に使われたことから、多くの住民が逃げ込んだ。建物は津波にのまれ、市の推計で162人が犠牲になった。
周辺をかさ上げしたうえで緑地化し、追悼施設などの「釜石祈りのパーク」を整備する計画が進んでいる。
民宿に乗り上げた観光船「はまゆり」
(岩手県大槌町、11年5月撤去)
当時
撤去後
全長約28メートルの観光船。津波に巻き込まれて海岸線から約150メートル内陸まで流され、高さ約10メートルの屋根の上に取り残された。
倒壊の危険があるため11年5月に解体。町は新たな建材を使って元の場所に原寸大で再現することを決定し、寄付金を財源に充てると条例で定めた。だが寄付は集まらず、計画は進んでいない。
幹線道路に横たわった缶詰タンク
(宮城県石巻市、12年6月解体着工)
当時
撤去後
高さ約11メートルの鉄製タンクで、近くの水産加工会社「木の屋石巻水産」が魚油の貯蔵に使っていた。漁港そばの工場は全壊、タンクは約300メートル離れた県道の中央分離帯まで流された。道路はかさ上げされた。
看板商品「鯨大和煮」の缶詰と形がそっくりのタンクは、観光客らに「世界一の缶詰」と親しまれていた。「見るたびに津波を思い出しつらい」という住民の声に配慮し、会社側が撤去を決めた。
東日本大震災、
あの頃と今
歳月が流れ、被災地の風景は大きく変わった。壊滅的な被害に見舞われた、岩手県大槌町と陸前高田市、宮城県気仙沼市と南三陸町、福島県新地町、そして東京電力福島第1原子力発電所――。震災直後から変わらぬ場所に立ち、進む復興の場面を追いかけてきた。くらし、産業、インフラは一歩一歩、再建している。