衆院解散・総選挙にみる
新党と自民の盛衰

 衆院選は自民党の勝利に終わった。挑んだ2つの新党のうち、希望の党はふるわず、立憲民主党は躍進し野党第1党となった。戦後の総選挙は、結党以来「永久与党」とも思われた自民党と、それに挑む新党の歴史でもある。衆院選の「数の攻防」を振り返る。

各党の衆院選後の議席数と議席占有率

1976三木内閣 ロッキード選挙

衆院選で自民党の議席が大幅に減り、渋い表情の三木首相(76年12月6日)

 戦後初の任期(4年間)満了となった三木武夫内閣のもとでの衆院選で、自民党の議席は初めて過半数を割った。田中角栄元首相がロッキード事件で逮捕され、自民党は政治腐敗の批判を浴びた。自民党を離党した河野洋平氏が率いる新自由クラブがブームとなり17議席を獲得した。

自民党の議席は初めて過半数を割った

1979第1次大平内閣 増税解散

「40日抗争」のすえ総辞職を決め、最後の閣議に臨む大平首相(79年10月30日)

 自民党は76年の衆院選後、保守系無所属の追加公認などで過半数を回復したが、三木内閣は退陣。党員による初の自民党総裁選で福田赳夫氏を破った大平正芳氏が首相に就任した。しかし、大平首相の一般消費税構想が不評で、79年衆院選で再び過半数割れとなった。退陣を求める声が上がったが、田中角栄元首相に支えられる大平首相は拒否。反主流派は福田赳夫氏を首相候補とし、党を二分する権力闘争、いわゆる「40日抗争」に発展していく。

自民党は再び過半数割れに

1983第1次中曽根内閣 田中判決解散

衆院選で自民党が大敗し、硬い表情の中曽根首相(83年12月19日)

 ロッキード事件の「田中元首相有罪」を受け、政治倫理が争点となった。自民党は田中判決の逆風を受けて過半数割れし、中曽根康弘首相は新自クラブとの連立で第2次中曽根内閣を発足させた。

第2次中曽根内閣は新自由クラブとの連立で過半数に

1993宮沢内閣 政治改革解散

38年間続いた自民党政権に終止符を打つ選挙になった宮沢首相(左、93年7月19日)。8党会派による細川連立内閣が発足した(同8月9日)

 リクルート事件を機に政官財の癒着が問題化し、政治改革の必要性が叫ばれていく。小選挙区制の導入を訴えた自民党竹下派の小沢一郎氏は、中選挙区制の維持を主張する議員を「守旧派」と呼び、党内を二分する形で政治改革法案を主導した。だが法案は成立せず、小沢氏らは野党が提出した宮沢喜一内閣の不信任決議案に賛成。不信任案は可決し、総選挙に突入した。自民党は過半数を大きく下回り、野党に転落。小沢氏らが自民党を離党して結成した新生党、細川護煕氏の日本新党、武村正義氏らの新党さきがけの3党が躍進。93年8月、社会、公明、民社などと非自民8党会派による細川連立政権が発足した。

非自民・非共産の細川連立政権は8党会派で発足した

1996第1次橋本内閣 小選挙区解散

橋本首相(中)のもと臨んだ衆院選で自民党は過半数を得られず、自社さ連立を維持した(96年9月26日、左は村山社民党党首、右は井出正一さきがけ代表)

 小選挙区比例代表並立制(当時は小選挙区定数300、比例代表200)の導入を柱とする政治改革4法はその後、細川内閣のもと94年1月に成立した。後を継いだ羽田孜内閣は社会党の連立離脱で少数与党となり、総辞職を余儀なくされる。野党に転落した小沢氏は公明党など野党勢力を結集し、新進党を結成した。一方、自民党は94年6月、社会党の村山富市党首を首班とする自社さ連立政権で政権に復帰。村山政権の後を継いだ橋本龍太郎首相は96年10月、小選挙区制の導入後初の衆院選に臨んだが、過半数を得ることはできず、社民・さきがけとの連立を維持した。

橋本首相は自社さ政権を維持した

2000第1次森内閣 「神の国」解散

衆院選で65議席を減らしたものの、自公保で絶対安定多数を維持。森首相(中)は続投した(00年6月26日、左は扇千景保守党党首、右は神崎武法公明党代表)

 96年衆院選で議席を大きく減らした社民、さきがけ両党は閣外協力に転じた。選挙前には民主党が結党し、多くの議員が新党結成に流れていた。自民党は新進党からの引き抜きなどで過半数を回復。新進党は解党し、自社さ連立体制も98年7月の参院選を前に解消した。しかし、自民党はその参院選で大敗する。橋本首相から交代した小渕恵三首相は金融危機のなか参院での過半数割れを受け、小沢氏率いる自由党、公明党との連立にかじを切る。小渕首相は2000年4月に脳梗塞で倒れ、森喜朗首相が就任。自身の「神の国」発言などで支持率が低迷する中で臨んだこの年の衆院選で自民党は単独過半数に達することができず、連立を組む公明、保守両党とあわせて与党過半数を維持した。

森首相は自公保連立で与党過半数を維持した

2005第2次小泉内閣 郵政解散

郵政民営化を訴えた衆院選で圧勝し、笑顔の小泉首相(05年9月11日)

 01年4月に就任した小泉純一郎首相は、高い内閣支持率を背景に、持論である郵政民営化の実現にまい進する。党内の反対派を「抵抗勢力」と呼び、05年8月の参院での民営化法案の否決を受け、国民の信を問うとして衆院を解散した。自民党は296議席を獲得する圧勝で、議席占有率は61.7%に達した。公明党を合わせた与党で総議席の3分の2を超えた。

郵政選挙の結果、与党は総議席の3分の2を超えた

2009麻生内閣 追い込まれ解散

308議席を獲得し政権交代を果たした民主党の鳩山由紀夫代表(09年8月31日)と、衆院選で歴史的大敗を喫し開票速報場を出る麻生首相(同30日)

 96年に結党した民主党は、03年9月に小沢氏の自由党と合併。その年の衆院選はマニフェスト(政権公約)の作成を宣言し、177議席を得る躍進を遂げた。自民、民主両党による二大政党制の色が強まっていく。民主党は、07年の参院選で自公政権の閣僚の不祥事や年金記録漏れ問題などを追い風に大勝。衆参で多数派が異なる「ねじれ国会」に苦しむ安倍晋三首相、福田康夫首相を相次ぎ退陣に追い込んだ。麻生太郎首相が衆院議員の任期満了近くまで追い込まれる形で臨んだ09年8月の衆院選で民主党は過去最多の308議席を獲得し、政権交代を果たした。

鳩山内閣は、民主、社民、国民新の3党連立でスタートした

2014第2次安倍内閣 アベノミクス解散

自ら「アベノミクス解散」と命名。消費再増税延期と経済政策の評価を問い、衆院選に勝利した安倍首相(14年11月21日)

 民主党は鳩山由紀夫、菅直人、野田佳彦の3首相を経て3年3カ月で政権から転落。自民、公明両党は12年の衆院選で定数の3分の2を超す圧勝を収めた。再登板した安倍晋三首相は自身の経済政策「アベノミクス」を推進する一方、野党時代に民主党と合意した15年10月からの消費税率10%への引き上げを先送りする方針を決定。国民に信を問うとして臨んだ14年12月の衆院選で再び与党で3分の2を超す勝利を飾った。

安倍首相は再び与党で3分の2を超す議席を得た

2017第3次安倍内閣 国難突破解散

安倍首相(自民党総裁)記者会見(17年10月23日)

 安倍晋三首相が「国難突破解散」と名づけた衆院解散をきっかけに、野党第1党の民進党は分裂。小池百合子都知事率いる「希望の党」と、枝野幸男元官房長官の「立憲民主党」に再編された。2つの新党との戦いに自民党は勝利。公明党とあわせて3分の2超の議席を維持し、安倍首相は2020年東京五輪までの長期政権への道を開いた。

安倍首相は三度与党で3分の2を超す議席を得た

制作大場 俊介、鎌田 健一郎、清水 明

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