写真記者が見た「3.11」
思い新たに
強く長く続いた揺れ。そして襲いかかってきた巨大な津波は町をのみ込み、2万人近くの尊い命を奪い去った。この世の光景とは思えないさまに、人はなすすべも無く、ただがくぜんとするばかりだった。追い打ちをかけるかのように福島第1原子力発電所の事故は起こった。 放射能という見えない敵に人々はおびえた。東北地方から離れた関東では、都市機能がまひし物不足に陥った。あの時から10年。戦後の混乱のような日々が続いた出来事を、当時、現地で取材した写真記者の手記で振り返る。
当時の手記01
「おにぎり、食べれ」
3月19日。
「おにぎり、食べれ」 岩手県宮古市の工藤教子さん(72歳)は、
3つしかない握り飯の一つを記者に差し出した。
17歳の孫と家財を探しにやってきたが、
自宅は津波で跡形もなく流されていた。
「薄型テレビの借金だけはしっかり残った」
冗談を言って、気丈に振る舞う教子さん。
「今までぜいたくしすぎた。また一からがんばらねば」
と、若い孫を元気づける。
握り飯を丁重にお断りすると、
「んだば、おこうこ食べて」
今度はたくあんを差し出した。
お言葉に甘えて一切れだけいただいた。
「身体にだけは気をつけてください。お元気で」
別れ際にそう声をかけると、
教子さんの目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
肩にそっと手を回す孫。
たくあんのしょっぱさが、目にしみた。

1, 高いところで18メートルまで波が押し寄せたという女川町(港湾空港技術研究所推測)。人口1万人の同町では死者・不明者が1000人を超え、シンボルだった観光施設が港のへりに無残な姿で残る(3月19日、宮城県)
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1, 高いところで18メートルまで波が押し寄せたという女川町(港湾空港技術研究所推測)。人口1万人の同町では死者・不明者が1000人を超え、シンボルだった観光施設が港のへりに無残な姿で残る(3月19日、宮城県)
2, 大規模火災が発生した気仙沼市の鹿折地区。街は焦土と化し、焼け焦げた車が転がっていた(3月23日、宮城県)
3, がれきに押しつぶされ、ぺしゃんこになった救急車(3月19日、岩手県宮古市)
4, 津波で町の中心部まで流された大型船。多くの家屋は倒壊し、想像を絶する光景が目の前に広がっていた(3月12日、宮城県気仙沼市)
5, 津波で破壊された仙台空港の到着ロビー。車いすの車輪が転がっていた(3月14日)
当時の手記02
「お辞儀」
「ありがとうございます」
そのおばあさんは、腰を深々と曲げて、
目の前を通る消防隊員やアメリカの救助隊一人一人に
丁寧に声をかけていた。
3月15日、岩手県大船渡市。
死者、行方不明者は500人を超え、
三千を超える家屋全壊という被害を出しながら、
なぜかそのおばあさんの態度は悠然としていた。
おばあさんの自宅は沿岸部に位置し、津波で流された。
1960年のチリ地震津波でも家を流されたという。
言葉を失っていると、
「家はまた建てればいいのよ。あなたもお仕事ご苦労様です。
職場は無事だからお茶でも飲んで行ってくださいな」
苦難を乗り越えてきた「強さ」と
そこから生まれる「優しさ」を感じた。
当時の手記03
「手に手を取り合って」
3月13日。
仙台市若林区の避難所を取材しているとき、
津波が再到来するとの噂が流れた。
避難場所を移動するようにと指示を受ける人たち。
その中に、最初の津波から逃げるときに足をねんざした
五十代半ばの母親と二十歳の娘がいた。
大きな毛布を片手に持ちながら母に手を貸す娘。
記者は彼女らに声をかけて、母のもう片方の手を取った。
弱々しい母の手が忘れられない。
3月14日。
宮城県名取市の閖上(ゆりあげ)地区。
取材中に強い余震が発生した。
数分後、津波の到来を知らせるスピーカー音が 遠くからこだました。
サイレンを鳴らしながら全速力で沿岸から避難する消防車。
走って逃げようとする記者に、消防隊員の一人が
「ここにつかまって」と消防車のハシゴを指差してくれた。
11, 多くの遺体が見つかった仙台市若林区で行方不明者を捜す消防隊員(3月13日)
12, 荷物を取りに一時帰宅した被災者。津波発生の放送を聞き、避難所に引き返して行った(3月13日、仙台市若林区)
13, 工事用一輪車に乗せられ移動する男性。地震後、電気と水が復旧しない自宅から動けずにいたが、親類の家へ避難することになった。がれきが散乱する自宅までは自動車が入れず、車いすも無かった(3月17日、岩手県釜石市)
14, 午後2時46分。巨大地震発生から1週間を迎えた被災地で、黙とうする陸上自衛隊員。黙とうを終えるとただちに捜索活動に戻った(3月18日、岩手県釜石市)
15, 被災地では車両が道路を通るたびに砂じんが舞い、人々の行く手を遮る(3月23日、岩手県陸前高田市)
当時の手記04
「私、一生懸命生きますから」
3月13日。
仙台市若林区の被災地で取材中、
突然津波警報が出た。
行方不明者の捜索をしていた警察官や消防隊員、
自衛隊員は一斉に車に乗り込んだ。
直前に取材した家族のことを思い出した。
彼らは荷物を探しに被災地の自宅に戻っていた。
徒歩だ。逃げ遅れたらまずい。
記者は車上の自衛隊員に家族のことを伝え、
警報を知らせるように頼んだ。
自分の車に戻り、出発させようとすると、
家族が車に向かって泥道を走ってくる。
子どもと母親らを急いで車に乗せ、
祖父は近くの消防車に乗り込んだ。
無事、避難所にたどり着いた。
感謝の言葉を何度も繰り返す母親は最後に
「私、一生懸命生きますから」と真顔で語ってくれた。
その瞳の中に一筋の希望を見た気がした。
16, 救急車を待つ間、母親に懸命に声をかける息子と娘。母親は津波で破壊された自宅で助けを待っていた。しかし3月15日未明に容体が悪化した(宮城県石巻市)
17, 火葬が間に合わず臨時に設けられた埋葬場でお別れをする遺族ら。棺桶も手に入らないため、シートにくるまれたまま土葬される遺体がほとんどだった(3月22日、宮城県東松島市)
18, がれきの片付けが始まった市街地で、路肩に積み上がる畳に座り込む女性。荷物を下ろすでもなく、ただずっと座り続けていた(3月19日、宮城県石巻市)
19, 遺体安置所の前で泣き崩れる女性。家族が手を差し出しても、しばらく立ち上がることができなかった(3月13日、宮城県名取市)
20, 福島第1原発のある福島県双葉町から役場ごと集団避難し、「さいたまスーパーアリーナ」に到着した親子(3月19日、さいたま市中央区)
あの日を胸に刻んで
津波が押し寄せた被災地は今、復興への歩みが感じられるようになったが、その道のりはまだまだ続く。あの日の出来事を胸に刻み、いま思いを新たにする。
- 写真
- 日本経済新聞社 写真部
- 手記
- 斎藤一美、今井拓也、上間孝司、伊藤航
- 制作
- 板津直快、森園泰寛、鎌田健一郎、安田翔平