Чорнобиль
悲劇から30年、
チェルノブイリの実相
1986年4月26日に起きたチェルノブイリ原発事故から30年。事故の脅威は、いまだに姿を残す4号機や廃虚の街、人々の健康被害に深く刻まれている。ただ、時間の経過は放射線の影響を薄め、「死の街」と恐れられたチェルノブイリの姿は少しずつ変化している。チェルノブイリの今を理解することは、福島の将来を探るきっかけになるはずだ。30年を迎えたチェルノブイリを4月に取材した。
Фотографии Александра Сироты
アレクサンドル・シロタ氏所蔵の写真
Фотографии Александра Сироты
アレクサンドル・シロタ氏所蔵の写真
チェルノブイリ原発を中心とした距離。
内側が30km圏内、外側が100km圏内
「死の街」はいま
シラカバの木を車の窓越しに眺めながら、車はウクライナの首都キエフから北上を続ける。車で約2時間。チェルノブイリ原発から30キロメートルほど離れた検問所に到着した。検問所の向こうは立ち入り禁止区域だが、事前にウクライナ政府に申請しておけば、パスポートを見せれば通過できる。
30キロメートル圏内では、▽植物や建物に触らない▽地面にカメラなどを置かない▽地面に座らない――などのルールが設けられている。見学者が放射性物質の影響を受けるのを防ぐほか、放射性物質が人やカメラに付いて30キロメートル圏外に出るのを防ぐためだ。
検問所は原発から10キロメートルの地点にもある。ここを通過し、しばらく進むと「レッドフォレスト」がある。大量の放射性物質により森林が枯れたことからこう呼ばれている。現在は元の森林の姿に戻っているように見えた。ここを抜けると目の前にチェルノブイリ原発の姿が広がった。
4号機が間近に見える広場には、事故から20年後に設けられた記念碑があった。4号機、記念碑をバックに観光客は普段着のまま記念撮影をしていた。チェルノブイリ原発の見学者は2015年に1万7000人、前の年に比べて3割増えた。世界を震え上がらせたチェルノブイリ原発は事故の教訓を伝える象徴として、また今なお続く廃炉作業の最前線として、多くの人を集めていた。
石棺
爆発事故で原子炉建屋の上部や一部の側面が吹き飛んだチェルノブイリ原発4号機は、コンクリートや鋼材で「石棺」を築き、放射性物質の外部への飛散を防いだ。わずか半年の突貫工事。耐用年数は30年で、原子炉建屋は風雨にさらされヒビが入るなど老朽化が激しい。そのため4号機の隣では、アーチ型のシェルターの建設が進む。シェルターで4号機を覆う計画で「再石棺」とも呼ばれる。
シェルターは高さ109メートル、長さ162メートル、幅257メートル。シェルターを4号機へと横滑りさせるレールを建設中で、完成後、シェルターを動かし4号機を覆う。作業は2017年に完了する予定だ。
原発内部
原発内部は白衣を着て見学する。4号機と同じ設計の2号機の制御室を見たが、システムは一部動いていた。
2号機の制御室を出て3号機に入る。長い通路を歩くと3号機と4号機の壁に到達した。そこには事故で亡くなった職員の慰霊碑があった。発電所の広報担当者は「遺体は見つかっていない」と説明する。4号機に遺体があるとみられるが、放射線量が高くていまだに誰も近づけない。事故の傷痕がこうしたことからも見て取れる。
捨てられた街「プリピャチ」
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マンションの屋上には、今も旧ソ連時代のエンブレムが残る。チェルノブイリ原発から5キロメートル圏内の「プリピャチ」。事故前には約5万人の住民が住んでいたが、原発事故で誰も戻れぬ街になってしまった。
学校や病院、文化ホール、開園を間近に控えた遊園地――。様々な施設が残っているとはいえ、建物の一部が壊れるなどしていた。ウクライナ政府に住民を帰還させる計画はない。
放射能とともに生きる
チェルノブイリ原発から半径30キロメートル圏内は立ち入り禁止区域だが、自身の判断で戻ってきた住民がいる。「サマショール」と呼び、現在は約160人が暮らす。
サマショールの1人、バレンティーナ・クハリャンコさん(77)は、事故後に避難したがすぐに戻ってきた。「古里に戻りたかった。放射線は怖くなかった」と話す。夫は2008年に当時70歳で亡くなった。愛犬のダーナと一緒に家事をしたり畑で農作物を作ったりして日々を過ごす。川で釣りをするのが趣味だという。
自宅は電気も水もある。年金も普通にもらえている。不便だと感じていることは、近くに薬局がないことぐらいだという。「古里で暮らすことが一番楽しいです。そして、遠くから来てくれた皆さんとお話ができることも、私の楽しみです」。ちゃめっ気たっぷりに話した。
避難者の生活
「青いマンションが見えるでしょ。皆で移住して来ました」。ベラルーシの首都ミンスク。スヴェトラーナ・ペホタさん(60)が自宅に招いてくれた。
ペホタさんは事故当時、原発から40キロメートル離れたゴメリ(またはホメリ)州ブラギン地区に住んでいた。今でも良い天気だったことを覚えている。長女は畑で農作業をしていた。事故の詳しい情報は知らされず、120キロメートル離れたゴメリ市郊外に避難したのは5月5日だった。1カ月後に自宅に戻った。
旧ソ連政府は事故から5年後までに強制避難の基準を年間100ミリシーベルトから段階的に引き下げた。 30キロメートル圏内の住民支援が優先されたため、ペホタさんが移住することになるのは事故から6年後。ソ連は崩壊し、ベラルーシ政府が用意したマンションに移り住んだ。
政府が用意したマンションは12棟あり、ブラギン地区の約2000人が移り住んだ。ペホタさんの部屋は3DKの63平方メートル。夫、次女、次女の夫と一緒に暮らす。「今の生活に満足しています」と前を見つめていた。
農業再生
ベラルーシもウクライナも農業は基幹産業。チェルノブイリ原発事故で大きな被害を受けたが、事故から30年がたち、農業再生が進んできた。
晴れ渡った青空の下、農作業機が大きな音を立てて動く。春の種まき時期を迎えた4月12日。ベラルーシのゴメリ州チェチェルスク地区の農場は活気があった。
原発事故後に農場を除染したのは、軍隊が10~20センチの土壌をはぎ取った1回限り。放射性物質に汚染されて使用できなかった土地も5年ほど前から使えるようになってきたという。
消えない傷痕
ベラルーシ南部のゴメリ市に住むアナスタシア・ソユリクさん(68)。1988年に甲状腺の異常が見つかった。その時は、甲状腺がんとは診断されず、経過観察が続いたが、08年10月に甲状腺がんの手術を受けた。チェルノブイリ原発事故が起きた直後、ソユリクさんは農作業をしていた。「事故が起きたことを知らずに強い風が吹いて舞った砂ぼこりをいっぱい吸い込んだ。その記憶は残っています」
ソユリクさんのように事故後だいぶたってから甲状腺がんと診断される患者がいる。がんの発症は個人差があり、今なおリスクを抱えながら生きている人もいる。
原発事故の後に生まれたバレリヤ・モスカリョクさん(21)は甲状腺に違和感を感じ、ゴメリ市にある放射線医学センターを訪れた。内分泌科の医師は触診の結果、超音波検査が必要だと判断した。検査を受けると特に問題はないことが分かり、ほっとしていた。「チェルノブイリ原発事故の影響は、やっぱり気になります」
小児甲状腺がん
甲状腺がんを引き起こす可能性を高めるのが「放射性ヨウ素」だ。汚染された牛乳を飲むなどして、甲状腺に放射性ヨウ素が蓄積した。また、甲状腺の特徴としてヨウ素の蓄積量には上限がある。内陸部のベラルーシでは海産物の摂取量が少なく、普段からヨウ素が不足している。いわば、体が放射性ヨウ素を取り込みやすい状況にあった。
ベラルーシでは事故4~5年後から子どもの甲状腺がんが増加。甲状腺がんに本来はほとんどならないはずの0~5歳の患者が多数みられ、医師らも「これはおかしい」と気づいた。ただし、モスカリョクさんのように、原発事故後にしばらくたってから生まれた世代は、放射性ヨウ素による影響はないとみられる。半減期が8日と短いからだ。
チェルノブイリ原発事故では、汚染の影響が多くの人々にトラウマとして残る。「放射線を正しく恐れる」。住民への啓発活動は、まだ道半ばだ。
一方、放射線による人体への影響について、多くの謎が残っている。ベラルーシで実は不思議なことが起きている。
首都ミンスクにある小児がんセンターのナタリア・コノプリャ副院長は首をかしげる。0~17歳のがん患者に占める甲状腺がんの割合は約10%。世界の1%よりも高いという。原因は明らかになっていない。
小児がんセンターでは白血病や脳腫瘍の子どもたちもいた。母親たちは「チェルノブイリ原発事故の影響だ」と訴えていた。同副院長は「関係があるかどうかは分かりません」と答えた。
福島へのメッセージ
国際原子力事象評価尺度(INES)で、最も深刻な「レベル7」に分類されているのは、チェルノブイリ原発事故と東京電力福島第1原発事故だ。同じレベル7だが、チェルノブイリ原発事故による放射性物質の放出量は福島事故の約6倍。福島事故は一定量が海に流れたが、チェルノブイリ原発は周囲がすべて陸地という立地場所の地形の違いもある。
チェルノブイリ原発事故と福島第1原発事故の比較
チェルノブイリ原発 | 福島第1原発 | |
---|---|---|
放射性物質の放出量 | 520万テラベクレル | 90万テラベクレル |
汚染地域 | 14万6100平方キロメートル | 8900平方キロメートル |
とはいえ、廃炉への道筋、健康への不安など、抱える問題点は共通する。福島がチェルノブイリに学べることがあるのは事実だ。
チェルノブイリ原発の事故処理で、中心的な役割を担うキエフ工科大学のミハイロ・ズグロフスキー学長は「チェルノブイリも福島も廃炉は簡単なことではない。日本とウクライナで研究交流を加速させたい」と話す。
ベラルーシのゴメリ州チェルノブイリ事故対策局のリシュク・リュドミラ副局長は「福島は我々と同じ状態になった。痛みやつらさがよく分かる。福島の子ども達が昨年、ベラルーシの保養所に来た。よい協力関係が築けることを願っている」とのメッセージを寄せた。
チェルノブイリ原発事故後に30キロメートル圏内の除染作業に携わった「リクビダートル(事故処理作業者)」の1人、アレクサンドル・ゴルスキーさん(60)は、「軍人だった私は逃げるわけにはいかなかった。今の技術があればと思う時もあるが、全ての仕事は正しかったと信じている。福島の作業者も自分を信じて頑張ってほしい」とエールを送った。
映像リポート、原発事故の現場から
放射線量がなお高い原発周辺や原発内部、爆発した4号機を覆うシェルター建設現場はどうなっているのか。今回取材した現場の様子を、30年前の事故当時の様子も交えて、映像にまとめた。
- 取材
- 辻征弥、小園雅之
- 制作
- 牛込俊介、安田翔平、清水正行
- 出典
- 東京電力、文部科学省