生産、政治、プロパガンダ 「責任ある大国」の虚実
ワクチン外交のタイムライン
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9月
中国製ワクチンを受け入れた国・地域
109
中国が世界に出荷したワクチン数
10億回分
2021年9月末時点で、中国は世界人口の半数近くが住む109の国と地域に、合計10億回分の新型コロナウイルスワクチンを輸出した。
2021年2月15日、紫色の朝焼けに包まれたアフリカ南部のジンバブエ。空の玄関口であるハラレ国際空港に、中国国有大手・中国医薬集団(シノファーム)のコロナワクチンを満載した大型輸送機が降り立った。
出迎えたのは、ジンバブエの副大統領兼保健相、コンスタンチノ・チウェンガをはじめとする同国政権幹部や政府高官だ。満面の笑みを浮かべ、中国大使の郭少春ら中国代表団と握手を交わしていく。「中国の支援は朝の光とともに訪れ、ジンバブエの復興と経済再開の早期実現に向けた夜明けをもたらした」。チウェンガは最大限の賛辞を送った。
滑走路にはワクチンを収めた白い大型コンテナが積み上がった。そのどれにも、異様に目立つ赤い「中国援助 CHINA AID」のステッカーが貼られていた。
ジンバブエへのワクチン寄贈は中国国家主席、習近平(シー・ジンピン)の信念を忠実に行動に移したものに他ならない。習は中国が米国をしのぐ「責任ある大国」となるべく、世界中で影響力と存在感を高めようと心血を注いでいる。目を付けたのがコロナワクチンだ。
欧米諸国は当初、最新技術で生み出したコロナワクチンの世界輸出に後ろ向きだった。その間隙を縫うように、中国は昔ながらのワクチン製造技術を用い、急速に生産を増やしていく。自国民への接種を急ぐ一方で、海外にも大量のワクチンを送り出したのだ。
米ファイザー・独ビオンテック、米モデルナなどが開発した「メッセンジャーRNA(mRNA)」と呼ばれるワクチンの新技術が注目を集めるなか、中国は静かに、そして着実に世界最大のワクチン供給国となっていた。
英医療調査会社エアフィニティによると、中国は2020年11月から21年9月までに約10億回分のワクチンを109の国と地域に輸出した。そのうち約5000万回分が寄付だ。出荷先の大部分(約8億回分)はアジアと中南米が占め、中国の広域経済圏プロジェクト「一帯一路」に関わる国々が多い。
米国はワクチンの無償提供で攻勢をかける。バイデン政権はすでに合計1億5000万回分以上におよぶワクチンを寄付・寄贈したと発表しており、中国のほぼ3倍にあたる。
欧州の輸出国(オランダ、スイス、ドイツ、ベルギー、英国)は、あわせて7億3000万回分を世界に輸出してきた。欧米から合計139の国と地域がワクチンを受け取っている。欧米は出荷した国・地域の数で中国に勝るものの、輸出量の累計では中国に後れを取っている。
中国と欧米それぞれのワクチン輸出先は96カ国・地域で重なり合う。とりわけ重複が目立つのが、中南米、アフリカ、アジアだ。国際世論を自国に有利に傾けるためのワクチン外交の最前線として、中国がこれらの地域を重視していることがくっきりと浮かぶ。
国内の接種回数と輸出総量
中国のワクチン外交は、中国が得意とする大量生産とプロパガンダに支えられた微妙な「物語」である。
中国製ワクチンは多くの人命を救い、国際規模のパンデミック対策としても、重要な役割の一部を果たしている。しかしその半面、ワクチンの有効性や治験データの透明性についてはほとんど口を閉ざしたままだ。
一部の国は中国ワクチンを信用しきれないでいる。
南アフリカは中国民営企業の科興控股生物技術(シノバック・バイオテック)製ワクチンの治験を始めたが「デルタ型への有効性について十分な情報がない」と判断。世界保健機関(WHO)が主導するワクチン分配の枠組み「COVAX(コバックス)」から提案のあった同社製ワクチンの受け取りを断った。ナイジェリアはシノファーム製ワクチンをいったん承認したにもかかわらず、他社製ワクチンを優先的に使っていくことを決めた。
何より中国はワクチン外交を利用し、コロナの世界的流行が同国中部の大都市、武漢から始まった、という汚名を返上しようとしている。ウイルスの起源に関する国際的な調査は暗礁に乗り上げ、その多くが未解決にもかかわらずだ。
「中国は国家の刻印が入ったワクチンを世界中に送り出すことで、パンデミックの震源地になってしまった悪評を拭いたかったのだろう」。米国のシンクタンク、インターアメリカン・ダイアログのマーガレット・マイヤーズは語る。
すでに中国国内でのワクチン接種は20億回以上にのぼり、輸出分とあわせると世界で使うワクチンの半分以上を中国製が占めている。中国への疑念は根強く残るが、それでもワクチン外交はとどまる気配を見せない。
このシリーズは知られざる「中国のワクチンギャンビット」の解剖を試みる。第1部では、中国が自国製ワクチンを世界に普及させるために何をしてきたのか、そしてその過程でどのように自国の利益につなげ、どんな果実を得てきたのかを見ていく。
ベストではないが、 必要十分
中国がワクチンの国内接種にめどを付け、海外輸出に力を入れ始めたのは20年末ごろだ。以来、その有効性を巡る議論は各地で激しさを増している。
これまでに判明した各種データを比較してみると、中国ワクチンの輪郭が見えてくる。
21年6月にWHOが発表したガイダンスによると、シノバック製ワクチンは「接種者の51%の感染を予防し、調査対象となった被験者の100%で重度の症状と入院を防いだ」という。
WHOはシノファーム製ワクチンについても分析しており、感染予防と重症化・入院予防の両面で79%の有効性が認められると推定している。
中国メディアは自国ワクチンの有効性のアピールに躍起だ
対する欧米製ワクチンは、ファイザー製の感染予防率が95%、モデルナ製は94%だ。英アストラゼネカと英オックスフォード大学が共同開発したワクチンは発症を防ぐ効果が63%で、米ジョンソン・エンド・ジョンソン製は66%で得られたという。
感染予防の点で、中国製ワクチンは欧米製より有効性が低いかもしれない。しかし香港大学の分子ウイルス学者、金冬雁は「重症化や入院を減らし、命を救うのに役立つ」と強調する。
デルタ型など感染力の強い変異ウイルスが現れ、いまは欧米製ワクチンに対してすら、長期的な有効性への疑問の声があがっている。例えばファイザーの協力を取り付け、世界でいち早くワクチン導入を進めたイスラエルだ。国民の65%がワクチンを2回受けたが、多くの接種者で抗体が減ったため、現在は3回目の注射を受けた場合にのみ「完全な予防接種を終えた」とみなしている。
とはいえ香港大の金は、中国製ワクチンには「まだ問題がある」と懸念を示す。中国側が臨床や医療現場で得たデータを完全には開示しておらず、それだけで有効性を正確に判断するのが難しい。
中国製ワクチンへの見方が変わり始めたのは、マレーシア政府が9月に独自の調査結果を発表してからだ。
同国政府によると、シノバック製ワクチンを接種した720万人のうち、集中治療室での対処が必要となった患者は全体のわずか0.011%だった。ファイザー製の0.002%、アストラゼネカ製の0.001%と比べても遜色はなく、重症化予防に一定の効果を持つと結論付けた。
そもそも世界で出回る中国のコロナワクチンは「不活化ワクチン」に分類される。インフルエンザや肝炎、ポリオなどの感染予防で使われてきた従来型のワクチン技術だ。有精卵などの培地を使ってウイルスを大量に培養し、人体で増殖できないようにする工程を経て製造する。すでに多くの感染症対策で実績があり、安定供給や安全性が期待できる半面、自然感染に比べて免疫力が強く出ない。
開発には通常時間がかかり、大量生産へ設備とノウハウも必要になる。この点、シノバックとシノファームはともに、ポリオワクチンやインフルエンザワクチンを開発してきた大手だ。コロナへの対応も、既存のインフラや人員を転用することで迅速に進めてきた。
一方、ファイザーやモデルナなどの欧米企業が採用するのがmRNAワクチンだ。ウイルスの遺伝情報そのものをワクチンとして注射し、そのたんぱく質を疑似的に人体に覚えさせて免疫力を鍛える。mRNAは人工合成が可能で、不活化ワクチンより開発に時間がかからないとされるが、一般患者に大規模に使うのは今回のコロナが初のケースとなる。
日米欧で普及する欧米製ワクチンの多くはmRNA型で、マイナス20度から同80度という超低温で保存しなければならない。中国製ワクチンは通常の冷凍庫でも保存できるなど、取り回しの容易さでも違いがある。
mRNAワクチンはいわば未知の技術だが、ファイザーやモデルナは有効性や生産に関わるデータを積極的に開示している。
これに比べて中国の極度ともいえる「秘密主義」は同国製ワクチンへの要らぬ懸念と誤解を生んでいる。日本経済新聞はシノバックやシノファームなど中国製薬各社に取材を求めたが、いずれも応じなかった。
実際、中国のワクチンは広く使われる技術に基づくにもかかわらず、ほとんどの先進国が承認していない。欧州でシノバックのワクチンを「有効な予防接種」として認めている国は10カ国にも満たない。欧州医薬品庁(EMA)はシノバックのワクチンをなお審査中としており、シノファームからは承認申請そのものが来ていないと明らかにした。
これまで中国製ワクチンを導入した一部の国や地域の苦闘も、他の国の政府を尻込みさせる要因になっている。
南米チリはシノバック製ワクチンを大量購入して自国民へのスピード接種を始めたが、21年4月には新規感染者数がかつてないほどに増加した。急増の背景には複数の要因があったとみられる。しかし6月には、イタリア首相のマリオ・ドラギが「チリの経験」を引き合いに中国ワクチンへの懸念を示した。
コロナワクチンの価格
1回あたり・米ドル
さらに意外なことに、中国製ワクチンは決して安いわけではない。
開示されている契約などをもとに国連児童基金(ユニセフ)が集計したデータによると、シノファーム製は15ドルから36ドル、シノバックは10ドルから33ドルで各国に輸出されている。モデルナのmRNAワクチンより安いが、ファイザー製よりは高価だ。アストラゼネカの「ウイルスベクター」型と呼ぶ、mRNAとは別の新型ワクチンと比べるとはるかに高い。
それでも今なお、中国製ワクチンの輸出拡大の勢いは衰えない。
米デューク大学によると、21年6月以降、バングラデシュ、ウガンダ、ネパールを含む少なくとも8か国が中国製ワクチン導入の新規・追加契約を結んでいる。COVAXは7月にシノファームおよびシノバックの協力を取り付け、合計1億1000万回分のワクチンを各国に即時供給できる体制を整えた。
中国の新興国への医療・医薬品支援はいまに始まったことではない。世界的な公衆衛生の担い手としての地位を確立し、自国のイメージを向上させようとする長年の努力に沿ったものだ。
綿密な計画と準備は20年近く前にさかのぼる。
03年に流行した重症急性呼吸器症候群(SARS)が教訓となった。SARS発生の報告の遅れから中国は世界中から批判を浴び、国際世論に働きかける「パブリック・ディプロマシー」の重要性を学びとる。そのわずか3年後だ。中国はマーガレット・チャンをWHOの事務局長として送り出すことに成功し、世界の公衆衛生に積極的に関わるようになる。
13年に発足した習近平政権はこの戦略を進化させ、より劇的なものにした。
中国政府は「一帯一路」のインフラ整備と並行し、16年には「健康シルクロード」計画に初めて言及する。翌年にはWHOと覚書を交わし、沿線国への積極的な支援を実現していくと国際的な公約に掲げた。
「中国は(ワクチン外交が)各国を自国陣営に引き込む便利な手段の一つであることに気付いていた可能性がある」。オーストラリア・シドニー工科大学のライハ・チャンはこう分析する。さらに、「米国とその同盟国を追い抜くために、中国はワクチンを道具として使おうとしている」(同氏)と述べた。
今回のパンデミックでは、米国を筆頭とする豊かな欧米諸国が自国での感染対応を優先し、貧しい途上国が置き去りにされるという国家間格差も鮮明になった。多くの新興国が中国製ワクチンを「唯一のベターな選択肢」と見なさざるを得ない状況がある。
中国は西側が見向きもしない国々にも積極的に手を差し伸べ、中国製ワクチンを喜んで受け入れる多くの「友好国」を見つけたのだ。
ワクチン外交が生む「新しい世界秩序」
2021年中に中国製ワクチンの充塡が始まる海外拠点
億回分
中国はコロナワクチンを大量輸出するだけでなく、世界各地で生産工場を立ち上げたり、安定供給のための技術支援にも乗り出したりしている。インドネシアやエジプト、ブラジルといった地域の大国を含み、中国の協力を得て1億回分以上の大規模生産を始めるケースもある。
メキシコ:離間の計
2021年3月、メキシコは失意のなかにいた。
米国が同国製コロナワクチンを中南米諸国に融通しないと明言したためだ。代わりに、米大統領のジョー・バイデンは力を込めた。「すべての米国人がワクチンを接種できるように集中する」
困り果てた米国の「隣人」に助け舟を出したのが中国だった。
エアフィニティのデータによると、20年12月から21年8月にメキシコに届いたすべてのコロナワクチンのうち、米国製は全体のわずか5%だった。逆に中国は32%を占め、21年8月末までにおよそ2500万回分をメキシコに輸出した。
メキシコは当初、米国を中心に国際社会に呼びかけ、より多くのワクチンを輸入しようとしていた。ワクチン調達を担当する外相のマルセロ・エブラルドは、モデルナやノババックスなど複数の米企業と交渉していることを明らかにしたが、これまでのところ完全な契約には至っていない。
米国から十分なワクチン支援を受けられない。そうしたさなか、メキシコは米州で初めてシノファーム、シノバック、そして中国の民営ワクチン会社、康希諾生物(カンシノ・バイオロジクス)が手がける3種類の中国製ワクチンをすべて承認した。
「とりわけカンシノ製ワクチンは1回の投与で済むため、地理的な条件や物流上の制約が多いメキシコにとって最良の選択肢だった」。メキシコ国立自治大学の教授、ナタリア・リベラ・エンジェルは指摘する。カンシノ製はアストラゼネカと同じウイルスベクター型だ。無害な別のウイルスを使ってコロナの遺伝情報を体内に届ける新しいワクチンで、カンシノは人民解放軍の協力を得て開発した。
メキシコは調達の多様化を急ぐが、なお中国製ワクチンに大きく依存している
- シノバック
- カンシノ
- ファイザー
- アストラゼネカ
- ジョンソン・エンド・ジョンソン
- スプートニクV
千万回分
メキシコがワクチンの充塡・生産設備を建設する際にも、カンシノは積極的に支援している。
加えて、メキシコは中国民営の雲南沃森生物技術(ワルバックス・バイオテクノロジー)と蘇州艾博生物科技(アボジェン)、軍の軍事科学院が共同開発したmRNAワクチンの治験も始めている。21年5月11日には、エブラルドがワルバックス・アボジェン製のワクチンを審査していると明かした。
「メキシコにおけるワクチン外交の勝者は中国であり、米国はもっとうまくやれたはずだ」。イベロアメリカン大学のグローバル・ビジネス・コーディネーターであり、ワクチン外交の専門家であるアリベル・コントレラス・スアレスは米国などの対応を批判する。「新興国を支援しなかった西側諸国は政治的な代償を支払うことになるだろう」と話す。
中南米にワクチンを提供するだけにとどまらない。中国はワクチン購入のための経済支援として、これまでメキシコ、アルゼンチン、チリを含む地域の13カ国に累計10億㌦相当の融資を実施した。
以前から中国は新興国へのインフラ投資を通して、各国を「債務のわな」に陥れているとの批判は多い。中国政府は強く否定しているが、コントレラス・スアレスは今回のワクチン融資も長期的に「各国が中国と関係を深めざるを得なくなるわな」になる恐れがあると警告している。
中国のワクチン外交は台湾問題にも影を落とす。
台湾を独立国として認める15カ国のうち、半分以上が中南米に集中している。すでに影響は及びつつあり、うちホンジュラスはワクチンを輸入するために、中国本土で貿易事務所を開く考えだ。ベリーズは中国製ワクチンの受け入れで合意した。
同じく台湾を国として認めるパラグアイは、ワクチン調達でかき乱された。アラブ首長国連邦(UAE)経由でシノファーム製ワクチンを受け取っていたが、21年7月末に突如、出荷を止められた。パラグアイ保健相のフリオ・ボルバは「かなりの地政学的」な理由で契約が破棄されたことを示唆した。
中国政府の思惑とワクチン外交はいとも簡単に大海を飛び越え、パンデミックと一見無関係な国際政治上の関係をも変えてしまう。これがいま、中南米で起きている現実だ。
インドネシア:「宣伝」の代償
世界4位の人口を誇るインドネシアは、2億7000万人の国民を守るためのワクチン調達に必死だった。
同国政府は20年春ごろ、在各国大使館を通じて欧米や中国の製薬各社との交渉に乗り出す。欧米勢からの反応は皆無に等しかったが、中国だけは別だった。
インドネシアはイスラム教徒が多数派を占める。過去の感染症流行で欧米製ワクチンがたびたび「豚肉成分」を使っていたことが判明し、国民的議論を巻き起こしてきた経緯がある。同国のイスラム慣行を主導する聖職者組織「インドネシア・ウラマー評議会(MUI)」は21年1月8日、早々にシノバック製コロナワクチンが「ハラル」認証に合致すると発表した。
そのわずか3日後には、政府がシノバック製ワクチンの緊急使用を承認する。当局によると、大統領のジョコ・ウィドドは1月13日に最初の予防接種を受け、中国以外の国で中国製ワクチンを使った最初の国家元首になったという。
今回のパンデミックは、中国とインドネシアの国有製薬大手であるビオ・ファーマの関係を深める契機にもなった。ビオ・ファーマはオランダ植民地時代に「国立ワクチン開発研究所」として設立された。
ビオ・ファーマはポリオやはしかなどのワクチンを150カ国以上に輸出しており、現在は東南アジア最大のワクチンメーカーの一つとなっている。コロナ大流行の前からシノバックとはポリオの不活化ワクチンで協業していた。両社の動きは速く、20年8月にはシノバックがビオ・ファーマにコロナウイルスのワクチンを大規模に提供し、現地生産のための技術ライセンスも供与していく契約を結ぶ。
インドネシアは中国のコロナワクチンに大きく依存する
- シノバック
- シノファーム
- アストラゼネカ
- モデルナ
- ファイザー
千万回分
この提携はビオ・ファーマに「中国製ワクチンの加工と製造に必要な技術的経験と専門知識をもたらし、生産体制を整えるのに役立つ」と、シンガポールのシンクタンク・ISEASユソフ・イシャク研究所のカイルランワ・ザイニは述べている。免疫力を高める追加接種(ブースター接種)に向けた世界的な需要増が見込まれるなか「インドネシアは中国ワクチンの輸出拡大を支える重要な2次サプライチェーンになるだろう」と予測する。
ただ中国製ワクチンを受け入れた多くの国と同じように、インドネシアでも有効性に対する疑念はくすぶったままだ。市民団体「Lapor COVID-19」によると、同国の医療従事者の95%以上がシノバック製ワクチンの接種を終えたものの、21年7月には約500人が新型コロナによって亡くなった。
インドネシア政府は結局、医療関係者へのモデルナ製の追加接種を決める。スピード優先の対応は国内外に大きなインパクトを与えたが、その代償も小さくなかった。
UAE:重なる利益と思惑
21年5月、UAEののハリファ工業団地。砂漠を切り開いてつくった工場群の一角で、シノファーム製ワクチンの充塡作業が始まった。
このUAEでの生産開始は、中国のワクチン外交のもう一つの重要な側面を映し出している。地政学的に要所となる国々に好意と実利とともに近づき、そこを起点に中国ワクチンの国際的な普及や信頼性を高めていく。そうした戦略的な意図である。
UAEでシノファーム製ワクチンのボトル充塡事業を担うのは、現地のグループ42(G42)というテクノロジー企業だ。シノファームから技術供与を受け、アラビア語の「生命」の意味を冠した「ハヤット・バックス」とブランド名を変えて操業を始めた。
年間2億本という大規模生産を目指しており、海外輸出も見込む。21年8月には第1弾として、10万回分のワクチンをフィリピンに送った。ハリファ工業団地には生命科学とバイオ技術の研究開発拠点も設けた。
UAEと中国の関係は深い。UAEは20年12月9日に中国製ワクチンを中国国外で初めて承認した。シノファームは治験の段階から支援チームを送り込んで手厚い支援に動く。さらに最も重要な決め手になったのが「ハヤット」ワクチンへのリブランド許可だった。
UAEはエジプトやインドネシア、セーシェルにもワクチンを送り出し、周辺国や関係国への国際的な支援を大々的にアピールしている。アミティ研究センターの研究者、アズマル・フセインは「両国の現在の地政学的な戦略的目標を考えれば、双方にメリットのあるウィンウィンの状況だ」と分析する。
G42ヘルスケア部門の最高経営責任者(CEO)、アシッシ・コッシーによると、中国側から「(UAEは)人口構成の多様性に加え、最終治験を迅速かつ適切に進める能力を備えた完璧なパートナー」とみなされていた。他方、UAEにとっては、シノファームの不活化ワクチンが保管に超低温を必要としない点や、ほかの病気でも広く使われる既存技術である点が魅力だったという。
「これら一連の取り組みはシノファームとのパートナーシップ契約、および中国とUAEの国家間協定なしには実現不可能だっただろう」。コッシーは中国の手厚い支援体制に感謝の意を示す。
UAEが受け取った3分の1以上が中国製ワクチンだ
実は今回のパンデミック前から、中国は「健康シルクロード」の重要拠点としてUAEを注視していた節がある。
18年には、中国の製薬業界団体「中国医薬・健康製品輸出入商業会議所」の代表団がアブダビ・インベストメント・オフィスを訪れ、現地有力企業との提携を求めた。コロナ危機でその呼びかけに応じたのが、アブダビ王室と密接な関係にあるG42だ。同社の会長であるシェイク・タフヌーン・ビン・ザイード・アル・ナヒャンはUAE初代大統領ザイード・アル・ナヒャンの息子で、現在は国家安全保障の顧問も兼務する。
「中国は中東全体で医薬・医療分野の事業展開を強化しており、UAEはその重要な役割を担っている」。アミティ研究センターのフセインは述べる。シノファームとG42のワクチン合弁事業が順調に進んでいることから、中国とUAEの提携は今後も拡大していく可能性が高いとみる。
豊かな国であるUAEも、イスラエルと同様に一定量のファイザー製ワクチンを確保できた。しかし中東では、高額なワクチンを選ぶ余裕のない国が多いのもまた事実だ。
インターネット上の噂話も中国製ワクチンの追い風となった。
ヨルダンやエジプトでは、アストラゼネカのワクチン接種後に死亡報告が相次ぎ、SNS(交流サイト)上で尾ひれがついた誤情報が急速に広まった。mRNAワクチンが「新しすぎる」という理由で、中国の従来型ワクチンを好む一般市民も多い。
中国はロシアと並んで、このような不安をあおっていると非難される。欧州連合(EU)が21年4月に発表した報告書で、中ロ両国は欧米製ワクチンに対して悪印象を植え付け、自国ワクチン普及のために「国家主導の偽情報」を流していると非難した。中国政府はこれらの指摘はいずれも不当であると主張している。
中国が各国にワクチンの「見返り」を要求し始めたとの声もある。21年初めにはウクライナに対し、新疆ウイグル自治区におけるウイグル族弾圧に対する国際的な非難から距離を置かなければ、ワクチンの供給を止めると脅した疑いがある。外交筋がAP通信に明らかにしたという。
拙速は巧遅に勝る
中国のワクチン外交はある明白な、しかし決定的な事実に基づいている。
それは世界中がワクチンを希求しているということだ。今回のパンデミックでは、迅速かつ果敢に行動することの重要性が浮き彫りになった。そのため多くの国がより効果的なワクチンを何カ月も待つより、とにかくいち早く手に入れる方が先決と判断している。理想とはほど遠いワクチンであったとしても、だ。
足元では欧米各国が変異ウイルスや抗体の減少に対抗するため、追加接種に向けたワクチン囲い込みに動く。その結果、さらに中・低所得国に必要なワクチンが回らなくなるのではないかという懸念が強まっている。
専門家の多くは先進国が自国のみの安全を優先すれば、大きな「しっぺ返し」が待ち受けるとみる。米シンクタンク「グローバルアメリカンズ」の公衆衛生コンサルタント、エゼキエル・カーマンは「新興国への支援を怠れば、ワクチン接種率が低い場所でウイルスが変異し、最終的には先進国にも変異ウイルスが入ってくるだろう」と警告する。
WHOも先進各国に対し、まずは追加接種を控え、ワクチンを最も必要とする場所に輸出するよう要請している。
しかし先進各国の内向き志向が劇的に変わるのは期待薄のようだ。「我々は(追加接種とワクチン輸出の)両方を実現できると信じており、どちらかを選ぶ必要はない」。米ホワイトハウス報道官、ジェン・サキはこう述べて、WHOの呼びかけを拒否した。
ワクチン供給の「空白」が世界に広がれば、さらに多くの国が中国に期待することになるかもしれない。
ワクチン供給の仕組みは新興国を不利な立場に追いやる
「デルタ型が世界中に広がり、世界の生産能力がこの異常事態に追いつけていないことを考えると、中国製を含むより多くのワクチンに対して強い需要が今後も続くだろう」。米外交問題評議会(CFR)のグローバルヘルス・シニアフェロー、ヤンジョン・ファンは指摘する。なかでも中国は経済的野心を念頭に、主に二国間契約を通じて独自のワクチン外交を継続する可能性が高いという。
インドネシアでは医療従事者の相次ぐ死亡で懐疑的な見方が広がったが、同国政府は21年7月に中国から4,000万本以上の追加ワクチンを受け入れた。「このパンデミックに対処するには、インドネシアが抱える巨大な人口をくまなくカバーする大量のワクチンが欠かせない」。インドネシア政府の医療政策に携わった経験を持つ、オーストラリア・グリフィス大学の疫学者、ディッキー・ブディマンは解説する。
国民の80%以上がファイザー製かモデルナ製を接種したシンガポールでさえ、中国ワクチンの見方を変えつつある。mRNAワクチンの副作用が心配な住民には、政府が確保したシノバック製を受けられるようにした。さらに当初、シノバック製ワクチンを「有効」とは見なしていなかったが、WHOの緊急使用リストにあるほかのワクチン同様に有効な予防接種として認める判断を下した。
繰り返す同じ過ち
世界的な公衆衛生危機に中・低所得国だけが取り残されるのは、今回のパンデミックが初めてではない。
「現時点では、この国の市民にワクチンを届けることが最優先事項だ。そのために24時間年中無休で取り組んでいる」。これは2020年のコロナ危機ではなく、09年10月に当時の米保健福祉長官、キャスリーン・セベリウスが語った言葉だ。
09年にはH1N1豚インフルエンザが世界的に広がったが、先進国はワクチンの供給を厳しく管理して独占した。WHOは「限られた物資の大部分は裕福な国に届く。世界はまたも、豊かさの利点を目の当たりにする」と先進各国の姿勢を糾弾した。
今回のコロナ大流行でも「米国やほかの先進国はまったく同じ過ちを犯した」と、米国の非営利シンクタンク「センター・フォー・グローバル・デベロップメント」のアンソニー・マクドネルは指摘する。
外交問題評議会で公衆衛生とサイバーセキュリティーを専門にするシニアフェロー、デイビッド・P・フィドラーもこう話す。「冷戦以降、ワクチンの研究開発と製造能力が欧米先進国に偏り、人びとの健康を脅かす未解決の課題として世界にのしかかってきた」
中国はそうした西側が支配するワクチン市場にくさびを打ち込んだのだ。感染症が流行するたびに後回しにされてきた新興国も、今回は「新しいワクチンを以前はなかった新たな経路から入手できるようになった」。フィドラーは言う。
これは中国との覇権争いが激しさを増す米国にとって手痛い打撃となった。米国はようやく自国のイメージが大きく損なわれたことを認識し、評判を取り戻そうと躍起になっている。
単に億単位のワクチンを寄付するだけではない。米国はCOVAXを通して各地に届ける場合でも、それを送ったのが米国であると世界に知らしめようとしている。
下:マダガスカルが2021年7月28日に受け取ったワクチンのコンテナ(出所:WHOアフリカ)
6月下旬に開いた米下院外交委員会の公聴会では、民主・共和両党の議員から「COVAXへの寄付に米国の国旗を付けるべきだ」という意見が相次いだ。
グローバルアメリカンズのカーマンは、こうした傾向に懸念を示す。「(寄付したワクチンに国旗を付けるなど)米国がしていることは、中国やロシアがその存在を誇示するために使う手法と変わらない。模倣する国が増えれば、国際的な取り組みであるCOVAXの精神が壊れてしまう」
中国の利益とその限界
「善良な地球市民」を自称する中国だが、ワクチン外交に戦略的な利益を見いだしているのは間違いない。その顕著な例がバルカン半島西部のセルビアだ。セルビアはEU加盟の4カ国と国境を接しているが、EUそのものには加わっていない。
「ワクチンが(セルビアに)近づいた。今日はセルビアにとって非常に重要な日であり、地域全体にとっても大事な日になった」。セルビア首相のアナ・ブルナビッチは21年7月、中国とのワクチン生産に関する契約締結を祝う式で宣言した。
セルビアは21年末までに、年2400万回分のシノファーム製ワクチンを国内生産する計画だ。近隣諸国に輸出し、ワクチンハブとしての影響力を強める思惑がある。UAEと同様に、ここでも中国は政府と企業が一体となった手厚い支援に動いている。セルビア副首相のブラニスラフ・ネディモビッチは3月、同国政府は土地を提供するだけで、補助金は一切出さないと強調した。
エアフィニティによると、セルビアが21年8月までに受け取ったコロナワクチンの約半数が中国製だ。EUからの出荷は4割にとどまっている。それだけではない。中国はコロナ危機の発生直後に最先端の機材と専門家チームを派遣し、わずか5日間のうちに「ファイヤーアイ」と名付けられたコロナウイルスの検査研究所を立ち上げた。
セルビアから見れば、中国との急接近は外交的な岐路を意味する。セルビアはEUへの加盟を申請中だが、域内の権利団体などから政府の汚職や権威主義的な体制について問題視されている。中国なら、そういった批判はしないだろう。
中国への傾斜は少なくとも2020年3月には始まっていた。大統領のアレクサンダル・ブチッチは首都ベオグラードで中国からの医療支援団を迎え入れ、中国国旗にキスをするという大仰なパフォーマンスで歓迎した。ブチッチはコロナ危機における欧州の連帯を「紙の上のおとぎ話」と呼び、EUによるセルビアへの個人用保護具(PPE)の輸出制限を厳しく糾弾した。
ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの研究者、ビュク・バクサノビックは分析する。「セルビアはEU加盟を依然希望しているが、承認プロセスが凍結しているだけに、中国とのさらなる協力を続ける可能性が高い」
セルビアとEUの間に生まれた溝は、中国にとって欧州大陸への貴重な突破口となった。同様にアジアや中東、そして中南米と地政学的な急所を次々と自陣営に引き入れようとしているのはこれまで見てきたとおりだ。
欧米諸国はワクチン買いだめへの国際的な批判を一蹴するが、中国が世界で繰り出すワクチン外交の戦略的影響にはほとんど注意を払っていないようだ。中国の行動に対して長期的な視点を欠けば、欧米勢は世界中の好意を失うだけでは済まないかもしれない。(敬称略)